第56回「大衆一如(だいしゅいちにょ)

吾我を放ち捨て、周囲と和合していく

前回は曹洞宗門の著名なご老師がご遷化(せんげ)(お亡くなりになること)されたことを受け、地元紙に掲載されたご老師に対する追悼文に触れさせていただきました。こうした古老の生き様に触れさせていただくとき、まだまだ我が仏道修が未熟であることを痛感せざるを得ません。昔の人は生き方も、ものの考え方も現代人から見れば遥かに優れていたということなのでしょうが、そういう部分を少しでも見習いながら精進していくことが、今を生かされている私たちの使命ではないかと感じております。

さて、過去に生きたご老師のお一人で、ご遷化になって13年近くが経った今も、住職が尊敬申し上げている禅僧がいらっしゃいます。その方が生前、よく口になさっていた「大衆一如」という言葉を、今回は味わってみたいと思います。

「大衆」は世間一般には、‟たいしゅう”と呼んで、不特定多数の人を指しますが、仏教の世界では、‟だいしゅ”と呼んで、一つの禅院で修行に励む修行僧たちのことを指しています。また、「一如」とは、「全く等しく、異ならないこと」を意味しています。自分が周囲の様々な存在と一体化し、和合していくことを説くのが「大衆一如」なのです。

禅院の日常というのは、修行僧たちが仏道修行を通じて、志を同じくし、周りの者とも理解し合いながら、仲良く修行に励むことによって運営されています。修行僧が吾我を発揮して、自分の意見ばかりを主張し、他者を受け止める姿勢無くしては、禅院の運営は成り立ちません。それは一般の企業や家庭の中にも通ずることで、禅寺がその特徴であり、強みと言っても過言ではない「大衆一如」の姿を提示していくことによって、世間の手本となり、布教にもつながっていくのです。

このご老師は、幼い頃から十数年に渡り、いくつもの禅院でご修行を積まれました。この間、色々なことがあったと推察されますが、そうした長年のご修行によって体得なさったことであり、人びとにお伝えしたかったことが「大衆一如」という禅語であったのかなと思うと、その重みを感じずにはいられません。一人一人が全く異なる考え方・性格の持ち主の中にあっても、何よりも仲良く関わっていくことが大切なのであり、それを少しでも実現できるようにしていきたいと感じるのです。

「大衆一如」の言葉を我が身に引き当ててみるとき、和するよりも争う場面ばかりが思い起こされ、必ずしも、禅院の和合に貢献してきたとは言えないことを反省する住職ですが、そんな中で、長引くコロナ禍によって、お寺の法要儀式が中止となり、これまで頻繁に顔を合わせていた僧侶方とお会いする機会が激減してしまったことが、住職に「大衆一如」ということを考えさせる機会を与えてくださったような気がしております。

そんな住職が「大衆一如」を目指す上で心がけるようになった3つのことを、最後に触れておきます。
①相手のちょっとしたことに捉われて、批判したり、責めたりしない
②怒りの感情が沸き起こっても、それを言葉や態度に表さない(ユーモアと穏やかさを心がける)
③穏やかさを心がけながらも、正すべきは正し、教えるべきは教える