二、正法を見聞して必ず修め習うべき事
第24回「忠言・佛語を受け止めること」
明主に非ざるよりは、忠言を
抜群に非ざるよりは、佛語を容ることなし。
ご縁があって、5年ほど前から「
元来、我の強さが言葉や態度に出やすい住職にとって、接遇スキルを身につけていくには、かなりの時間を要し、5年経った今も、果たして、どこまでできているのかと疑問符が付くような状態にも思えます。しかし、ここ最近、‟学道の者が関わり合うハイレベルな日常”を意識し始めたとき、良質なコミュニケーション・対人関係の実践を重要視する「接遇」のスキルは、決して、無関係ではなく、是非とも、究めていきたいスキルであると思うようになってきました。
そうした接遇教習の中で、リーダーたるものの心得について学ばせていただきました。自分が率いるチームのメンバーと考え方や志を同じくし、チームの目的に向かってメンバーを引っ張っていくのがリーダーであるというのです。何より大切なことは、メンバーとの共通認識を持つことであるという接遇の教えは、我が強く、人間関係やチームワークを乱すことが多かった自分にとって、まるで目にしたことのない宝物に触れるような感覚になるほどの大きな発見でした。
そんなリーダーという存在が、チームの共通認識を作り上げていく上で、いつもメンバーからの羨望の眼差しで見られ、敬意ある態度で接していただけるかと言えば、必ずしもそうとは言い切れません。時には部下から耳に痛い忠言をいただくことがあるかもしれません。立場関係なく、上司を見下す部下と関わらなくてはならないことだってあるかもしれません。こうした場面・人間同士の関わりというのは、立場のあるものとしては、でき得ることならば避けたいと願うことでしょう。しかし、人々から名君主と親しまれるような人材ほど、相手が部下であろうが関係なく、どんな耳障りの宜しくない忠告にも素直に耳を傾け、自分自身を改善していこうとするのです。その点は注目に値するところです。まさに「明主に非ざるよりは、忠言を容ることなし」なのです。
こうした明主が自らをあるべき方向に改善していく上で必要となってくるのが、「正法を見聞して必ず修め習う」という姿です。すなわち、「正しい教えをしっかりと見聞きして、自らの言動に反映させていくこと」です。やはり、こうした姿勢を以て、毎日を丁寧に生きていくことによって、我が器が磨かれ、明主と呼ばれるような人材になっていくのです。
そうした人間性の完成された、群を抜いた存在を「抜群」と申します。その「抜群」たる存在は、佛の言葉・み教えさえも、しっかりと受け容れることができるというのです。なぜ、それができるのかと言えば、「吾我を離れている」からに他なりません。‟自分が、自分が”といった自分を主張することなく、どんなことに対しても、好悪の別なく、素直に受け止められることができるからこそ、忠言や佛語が入り、その人間性が磨かれた「抜群」となっていくのです。
忠言や佛語というものを避けるのではなく、逆に、自分の方からご縁を育み、我が身を磨き、仏へと近づいていく機縁としていきたいものです。