第10回「首章・拈提B お釈迦様の謙虚さに学ぶ人生訓」
【拈提】
成道の思ひをなすことなし。大地有情の
「我と大地有情と同時に成道す」というお釈迦様が獅子吼なさった一句には、お釈迦様が成道なさったときに、今という時を同じく生かされているいのちも、過去に生かされてきたいのちも、また、未来に生かされるであろういのちも、皆、同じようにして仏と成り、お悟りを得たという意味合いが含まれています。
この世には、人間や動物のような呼吸をしているもの存在もあれば、コップ一個や、金属片ように呼吸をしない存在もあります。そうした存在の一つ一つを、瑩山禅師様は「我」と表現なさいました。人間もいれば、動植物もいる、コップのような道具や大自然もある、しかし、それぞれが違った存在であり、同じ人間であっても、一人一人は異なる存在であり、何一つとして同じ存在はないのです。そうした異なる「我」どうしが関わり合い、支え合っていることにお気づきになったのが、お釈迦様の成道なのです。
そんなお釈迦様が成道の際に獅子吼なさったものの(恁麼なりと雖も)、「成道の思ひをなすことなし。」とあるように、「ご自分が悟りを得たという意識がない」と瑩山禅師様はお示しになっています。これは一体、どういうことを意味しているのでしょうか。
「伝光録・首章」における「我」とは同じ文字でありながら、内容は異なりますが、「我」には、「吾我」という言葉があるように、「自分中心の」とか、「我先に」という意味合いがあります。それを踏まえながら考えていくと、「成道の思ひをなすことなし」におけるお釈迦様には、成道という誰もが簡単には到達できない、ハイレベルな事を成し遂げられたにもかかわらず、「オレが見事に悟りを得たんだ!」というような横柄な意識がなかったことが読み取れます。それは坐禅という修行を、やって、やって、やり続けていくことによって、自ずと悟りの境地に到達できたのであり、自分だけの力で成し遂げたわけではなく、自然の営みによるものであったという意味が含まれているのです。
たとえば、6月に入れば、次第に気温が上がり、梅雨に入れば、雨の日が多くなります。アジサイは見事なまでに可憐な花を咲かせます。これが自然の営みです。お釈迦様の成道というのは、凄さとか、尊さといった面がクローズアップされがちですが、お悟りを得た当のご本人は、決して、悟りを得たことに対して、傲慢や横柄な態度を醸し出したのではなく、あくまで謙虚で低姿勢であったことに気づかされます。そのことを指し示す瑩山禅師様のご見解をしっかりと胸に収めながら、日々の仏道修行に邁進していきたいところです。
コロナ禍で多くの行事が中止や延期を余儀なくされていた時期から、今は再開へと方向性に変化が見え始めてきました。先日、ある方と電話をする中で、「コロナがまん延している時期に組織で様々な役割を担ってきた人は、何もできないままに役目を終わろうとしているが、これからは中止・延期の判断を下す前に、どうすれば開催できるのかを考えていくことが大切ではないか」という話題が出ました。このとき、ふと頭の中に、組織の中心人物であることを自称し、自己の判断で各種行事を采配してきたと豪語する方と、その数日前にお話ししたことが思い出されました。当人は、自らが敏腕な人間であると言うものの、残念ながら、周囲は当人に対して、面倒に見える行事は中止、やりたいと思う行事は理由をつけてやるという評価をしています。そのことを当人は微塵にも存じ上げていません。
この方のように、人間が傲慢や横柄な態度になってしまうのは、自分の能力を過信しているからなのでしょうが、自分の知らないところでは、どう判断されているかは、見えにくいものです。これは決して、他人事ではありません。我が事として留意しつつ、お釈迦様のように、謙虚で低姿勢な姿で、毎日を過ごすことを心がけていきたいものです。