第11回「首章・拈提C
【拈提】
悉
「山河大地(山や河、大地)」、「森羅万象(この世のありとあらゆる存在)」は、いずれも私たち人間が生かされている娑婆世界を形成し、そこに存在している全てのものたちを指しています。山は大量の土が集まって形成されています。そして、そこにはたくさんの草木が生い茂り、青々とした山の姿を表しています。「森森たり」というのは、そういう山の姿を表しているのです。
木々が生い茂っていれば、山の奥深くがどんな状態になっているのか、そして、そこにどんないのちが生かされているのか、山の全てを完全に把握しきるのは至難の業です。それは河の中であっても、私たちが日常生活を営んでいる大地の上であっても、同じです。山には山が、川には川が有する世界観があります。そして、それらには諸行無常や縁起(万事がつながり、関わりあっている)といった「この世の道理」がもれなく適用されています。
そうしたそれぞれのフィールドにおける世界観や、この世の道理というものを、細部まで確認したとしても、自分の考えや好みに合わないと感じたものを素直に認めようともせず、自分の好き勝手な見方で、都合のいいように解釈してしまうのが、我々凡夫なのですが、それに対して、そうした世界観なり道理というものを認めたのが、坐禅によって仏の道を成し遂げたお釈迦様なのです。
「瞿曇」とあります。これはお釈迦様のご出身である釈迦族の人々の姓です。本来はお釈迦様だけを指しているわけではないのですが、仏典を読み解いていきますと、お釈迦様を指して「瞿曇」とお呼びする用例が時折、見受けられます。そうした「瞿曇」なるお釈迦様のお悟りの眼(眼睛裏)は一切、個人的な都合や私見に捉われたようなものではなく、道理は道理のままに、そっくりそのままに受け止めるモノの見方ができるというのが、今回の一句の意味するところです。
ちなみに、仏教では「