第12回「首章・拈提D 瞿曇の眼晴裏に(りっ)する

【拈提】汝等諸人、また瞿曇(くどん)眼睛裏(がんせいり)(りっ)せり。
唯立せるのみに非ず、今の諸人に換却(かんきゃく)しおはれり。

「瞿曇(お釈迦様)」の「眼晴裏(お悟りの目)」ということについて、瑩山禅師様は一歩踏み込んでお示しになります。それは「汝等諸人」とありますように、今、大乘寺において瑩山禅師様の下で仏道修行に勤しむ修行者たちは勿論のこと、その時代の人々、さらには、現代社会に生かされている我々のような次世代の人々にも発せられたみ教えであると捉えるべきでしょう。そのことを押さえた上で、本文に触れていきたいと思います。

前回、「瞿曇の眼晴裏」というのは、この世の道理をお悟りになったお釈迦様の捉え方によって、物事を見たり考えたりすることであるということに触れさせていただきました。我々、仏道を歩む者は勿論のこと、一般社会に生きる方々も、できるだけ自分のわがまま勝手なモノの見方や考え方は止めて、道理を道理のままに受け止めていく捉え方を身につけていけたらと願うのです。

そうした「瞿曇の眼晴裏」が指し示しているような姿形を以て、この世が存在・成立しているというのが、「瞿曇の眼晴裏に立せり」の意味するところです。過去・現在・未来、いつの時代であれ、この世に生かされている全ての者は、「瞿曇の眼晴裏」という大きな存在に包まれるようにして、その存在が成立しているというのです。それは変えようのない事実であると共に、決して、お釈迦様が諸人を配下に置いて、その存在を支配しているということではないということを理解しておきたいところです。

そして、「唯、立せるのみに非ず、今の諸人に換却しおはれり」とあります。「換却」は「交換」のことです。私たちが「瞿曇の眼晴裏」に支配されているという捉え方が誤っているのと同時に、私たちは、その生き方や考え方、すなわち、自らの仏道修行の方法如何によって、「瞿曇の眼晴裏」が我が身に根づき、仏のお悟りに近づいてけるということを、もう一つの留意点として押さえておきたいところです。

私たちは「瞿曇の眼晴裏」に立すると共に、日々の自らの在り方ひとつで、いくらでも「瞿曇の眼晴裏」に近づけるという、瑩山禅師様からの励ましのメッセージをしっかりと受け止め、毎日を過ごしていきたいものです。