二、正法を見聞して必ず修め習うべき事

第25回「治国徳政(ちこくとくせい)に生きた明主 ―故・安倍晋三元首相を偲ぶ―

()し回心せずんば、順流生死(じゅんるしょうじ)の未だ断ぜざるなり。
如し忠言を()れずんば、治国徳政(ちこくとくせい)の未だ行われざるなり。

「回心」とは、「自分が仏の方向に向くこと」でした。前段の「菩提心を(おこ)すべき事」の中で、「迷う者は~実法(じっぽう)を厭い、妄法を求む」とありましたが、‟私が”とか、‟俺が”などと、何よりも自分を最優先しようとする者は、実法(正法)を見聞きしようとしないがゆえに、中々、回心することができないものです。それゆえに、「順流生死の未だ断ぜざるなり」とあるように、いのちある者がいつか必ず最期を迎えるものであるということが認められないのです。

「順流生死」というのは、まさに「諸行無常(この世の全ての存在が変化していく)」の道理を指していますが、令和4年7月8日に発生した安倍晋三元首相銃撃事件は、世界中に衝撃を与えると共に、人間のいのちのはかなさや尊さということを再認識させたのではないかと感じております。凶弾に倒れる直前までは、来る7月10に執行される参議院議員選挙に向けて自民党の候補者をアピールすべく街頭演説を行っていたのが、2発の弾丸によって、その5時間半後には帰らぬ人となっているのですから、人間の存在というのは、本当にはかないものだと思わずにはいられませんでした。

こうした諸行無常の道理に対して、常にアンテナを張り巡らせながら、我が事として受け止めていくことが仏道修行者にとって、いかに大切なことか―。それが「正法を見聞して必ず修め習うべき事」が我々に訴えようとしているところの一つであると捉えています。

前回、「明主に非ざるよりは、忠言を容ることなく」とありましたが、名君主は耳に痛い言葉も全て受け止め、治国徳政(国を治め、政治を司る)を行うのです。亡くなった安倍晋三元首相に対して、世界中の首相や政界始め、各界から追悼の言葉が寄せられていましたが、現役の首相時代には賛否両論があったとはいえ、まさに道元禅師様がおっしゃるような、明主のお一人であり、日本を代表する政治家であり、国を治めるリーダーであったことは事実だったことが伝わってきました。ときには忠言あったことでしょう。しかし、それも受け止めながら、必死に日本国のために最前線に立ってこられた「治国徳政」のお姿が思い浮びれます。

もう一点、こんなエピソードがあります。それは、大本山總持寺独住二十四世・大道晃仙(おおみちこうせん)禅師(1918-2011)のご生前の出来事です。聞き及ぶところでは、大道禅師様を訪ねてきた同門の方丈様が禅師様に対して、罵詈雑言を浴びせたというのです。それは発したものからすれば「忠言」だったかもしれませんが、受け取る側である周囲で聞いていた方々にとってみれば不愉快この上ないものだったそうです。

しかし、そんな言葉を禅師様は黙ってお聞きになっていらっしゃったそうです。そのうち、言いたいことを言い切った方は、お寺を後にしたそうですが、大道禅師様はお手元の急須で静かにお茶を入れ、一服なさると、「人間は必ず死ぬものだから」と静かにおっしゃったそうです。これはまさに、今回の学道用心集の一句とも相通ずるこの世の道理を受け止め、回心なさっている仏道修行者のお姿ではないでしょうか。そのように受け止めております。

人間が生きていく上で、耳に痛い忠言始め、ときには怒りが爆発しそうなくらいの罵詈雑言を浴びなくてはならないことがあります。そんなとき、大道禅師様のように、「人はいつかは死ぬものだ」という諸行無常の道理を頭の中に思い浮かべながら、静かに受け止めていくことを心がけていきたいものです。そうすることによって、人は大きく成長していけるのです。故・安倍晋三元首相もそんな明主のお一人であったことと捉え、哀悼の意を表します。合掌