第13回「首章・拈提E
【拈提】又
お釈迦様のお悟りの境地で物事を捉えていく視点というのが、「瞿曇(お釈迦様)」の「眼晴裏(お悟りの目)」でした。そもそも、私たち人間は、そうした「瞿曇の眼晴裏」というものを最初から具えているわけではありません。坐禅を始めとする日々の仏道修行によって、私たちの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身体・心の六根)というものは段々と磨かれていくものなのです。まさに「瞿曇の眼晴裏」は、そうやって育まれていくものなのであり、仏道修行によって、凡夫の身体が仏の身体へと近づいていくのです。
今回の一句の中に、「肉団子」という言葉が使われています。「肉団」というのが、まさに我々衆生の身体を指しています。悟りを得た仏の視点を意味する「瞿曇の眼晴裏」というのは、容易には到達できぬものではなく、先にも申し上げましたように、最初から完成されているものでもありません。元来は「肉団子」とあるように、誰もが衆生の眼であり、凡夫の物事の捉え方なのです。
それは後世、仏と呼ばれる祖師方も同じで、たとえば、修証義第二章の中に「
「肉団子」の段階にある者が、「瞿曇の眼晴裏」に至った者を見れば、当然ながら格段に違うレベルの高さに気づかされることでしょう。それを意味するのが「壁立万仞」です。「壁立」は「直立した高い壁」を、「万仞」は「極めて深い、高い状態」を意味しています。これは、例えてみるならば、容易には超えられぬほどの高い壁であり、中々、行き先が判別できぬほどの深い森のような状態ということなのでしょうが、「肉団子」から見た「瞿曇の眼晴裏」というのは、雲の上という言葉がしっくりくるような歴然とした違いがあるのです。
そうした高い壁や深い森のごとき違いがある「肉団子」と「瞿曇の眼晴裏」ですが、両者は別個に存在しているのではありません。私たちの日々の過ごし方によって、いくらでもつながり、近づくことができるもの同士なのです。そのことを押さえておきたいところです。それは「肉団子」も精進すれば「瞿曇の眼晴裏」となり、「瞿曇の眼晴裏」も怠け続ければ、「肉団子」になるということなのです。