第14回「首章・拈提F 成道の道理を考える上で

【拈提】諸人即ち是れ瞿曇(くどん)眼晴(がんせい)なり、瞿曇即ち是れ諸人の全身なり。
()恁麼(いんも)ならば、何を(よん)でか、成道底(じょうどうてい)の道理とせん。

前回は、「瞿曇(くどん)眼晴裏(がんせいり)(お釈迦様のお悟りの眼)」と「肉団子(にくだんす)(凡夫のモノの見方)」の関係性について、触れさせていただきました。両者は別個に存在しているものではありません。我々凡夫の眼(モノの見方)というのは、自らの日常生活の過ごし方によって、「瞿曇の眼晴裏」にもなれば、「肉団子」にもなるのです。私たちが仏道修行に邁進しながら日々を過ごせば、「瞿曇の眼晴裏」に近づくことでしょう。また、私たちが一日一日を無駄にし、怠惰な生活を送っていれば、「肉団子」にもなり得るということなのです。

ですから、瑩山禅師様は「諸人即ち是れ瞿曇の眼晴なり、瞿曇即ち是れ諸人の全身なり。」とお示しになるのです。諸人(我々凡夫)たる者は、毎日の過ごし方次第で瞿曇の眼晴(仏の悟りのモノの見方)を体得することができるのです。また、そもそも、瞿曇(お釈迦様)だって、王位という将来の保証された地位や妻子と離れ、仏道修行に邁進なさったからこそ、仏に成られたのです。仏もまた、元来は私たちと同じ凡夫であったということを背後に秘めているのが、「瞿曇即ち是れ諸人の全身なり」なのです。

この点は、仏道修行を行じていく上で、よくよく押さえておきたいところです。坐禅に代表される仏道修行というのは、「無所得無所悟(むしょとくむしょご)」と道元禅師様がお示しになっているように、容易く形ができて、何かしらの結果が出るものではありません。しかし、だからと言って、何も結果が出ないものでもありません。自分勝手な解釈を持ち込むなどして、自分に都合のいい捉え方をしているようでは、忽ち道から外れ、まさに何も得るものもなければ、何か悟ることもなくなってしまうのです。すなわち、余計な未来への期待(たとえば、自分に何かいいことが起ることを期待するようなこと)を持たずに、仏のみ教えに従って、仏の道を歩んでいけば、次第に形が仕上がってくるということなのです。仏道というのは、そう簡単に目標が見えてくるものではなく、時間をかけて長い道のりを歩んでいくようなものなのです。途中で諦めたり、断念したりしてはいけません。歩み続けていくうちに、仏のお悟りへと近づいていくものなのです。

だから、瑩山禅師様は我々に問いを投げかけていらっしゃるのです。「若し恁麼ならば、何を呼でか、成道底の道理とせん。」と―。「底」には、古典文法上の様々な用法はあるようですが、ここでは疑問詞としての用法で解釈していきたいと思います。「もし、凡夫が仏道修行をして、仏のモノの見方を養うと共に、仏も仏道修行によって凡夫から仏に成ったのではないとするならば、一体何が成道の道理と言えるのだろうか?」―。「長い長い仏道を時間をかけて修行しながら、ついには悟りを得る」というのが、成道の道理です。瑩山禅師様の問いかけは、我々に成道の意味を再確認させるだけの強い力を秘めています。

そして、この問いかけは、さらに大きく一歩踏み込んだ問いかけへとつながっていきます。それが次の首章・拈提の中心的思想ともいえる「(とも)」です。