三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第26回「仏道は修行に依ってのみ体得できるもの」

右、俗に曰く、学べば、乃ち祿(ろく)其の中に在りと。
仏の(のたまわ)く、行ずれば、証其の中にありと。

7月中旬頃から新型コロナウイルスの感染が急拡大し、今まででは考えられない数の感染者が日々、報告されています。まさに第7波が猛威を振るっている状況下であると共に、今度は「サル痘」なる新たな感染症までもが登場しました。「ウィズコロナ」と言われるように、人々が感染症と共に生きていかなければならない令和の時代にあって、冷静に情報収集をしながら、正確な知識を得ていくしか、感染症に対処する道はないと思っております。

菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事」に引き続き、二点目の仏道修行者にとっての用心として、「正法(しょうぼう)見聞(けんもん)して必ず修め習うべき事」が提示されました。「見聞(自分の目や耳で確かめること)」とあるように、我々は自分の目で見たことや、自分の耳で聞いたこと、そうした我が身を通して経験したことによって、物事を正確に理解したり、体得したりできるようになります。そのことは、今のような感染症の時代のみならず、いつの時代においても、人間が日常生活を送る上での重要なポイントです。ここでは、その点をしっかりと押さえておきたいところです。

さて、今回より三点目の用心となる「仏道は必らず行に依つて証入すべき事」に入ります。「仏道には絶対に修行が必須であり、修行によってのみ、仏のお悟りに近づいていくことができる」というのが、三点目の用心が指し示すところです。ここでの「行」というのは、他でもなく「坐禅」です。これまで幾度も申し上げてきましたが、坐禅は「無所得無所悟(むしょとくむしょご)」とあるように、何か自分にメリットがもたらされることを願って行ずるような、何らかの目的や目標を以て行ずるものではありません。坐禅を行ずる者自身が、自らが仏であるとの自覚の下、仏の日常生活の一場面であった坐禅を自らも仏と同じように日常的に行じていくのです。それが曹洞宗の坐禅なのです。

そもそも目的や目標を掲げて坐禅をしていたのでは、目的を果たし、目標に達したとき、学校を卒業するかのように、坐禅を終わらせてしまいます。こうした坐禅は、仏が行じてきたものではありません。学道の者の坐禅は、無目的・無目標の、一生涯に渡る行なのです。

そうした坐禅をやって、やって、やり続けていくことによって、いつしか証入(仏の悟りの世界に入っていく)というのが、「行ずれば、証其の中にあり」の意味するところです。これは「仏の言く」とあるように、「仏のお言葉」であるということなのですが、あたかも「学べば、乃ち禄其の中に在り」とあるように、研究者が学問や研究を行ったり、サラリーマンが働いたりすることによって、禄(給料)を得らるようなものだというのです。仏道を行じ続けていくことによってしか、証(悟り)に入ることはできないのです。

道元禅師様が若かりし頃、中国の禅院で古の仏道修行者が示された経典を読み漁り、日本に帰ったら苦悩する人々を救わんと、必死になって知識を身につけていた頃、西川(せいせん)の僧なる人物がやって来て、「経典を読むことが何の役に立つのか」と再三に渡って問いかけてきました。この中国の僧とのやり取りが、後に道元禅師様に「坐禅という行に徹底する以外に仏道修行者の道はない」という気づきへとつながっていきました。仏教について僧俗問わず議論する中で、この若かりし頃の道元禅師様のように書籍で得た知識で仏道を語る方は今もいますし、かく言う私自身も注意しながらも、そういう自分に出くわして、ハッとさせられることがあります。坐禅始め、仏の教えは行じることに大きな意義があることを、しっかりと押さえておきたいものです。