三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第27回「学ばすして(ろく)を得る者、行ぜずして証を得る者はなし」

未だ(かつ)て学ばずして(ろく)を得る者、行ぜずして、証を得る者を聞くことを得ず。

「ろくに学問に励むことなく禄(給料)を得た者など未だ見たことがない。また、しっかりと修行もしていないのに悟りを得たという者を聞いたことはない」というのが、今回の一句における道元禅師様のみ教えです。これもまた、端的に示された真理であり、日々、仏道修行に精進する学道の者にとって、その進むべき方向性が誤っていないことが示されています。そんな祖師のお言葉を、我々は素直に信じ、我が身を委ねながら仏道修行に邁進していけばいいのです。

ところが、現実世界に目を向けると、かほどに確かな祖師のお言葉をいただいているにもかかわらず、一瞬、目を疑いたくなるような場面に出くわすことがあります。たとえば、道元禅師様のお言葉をお借りするならば、「学ばずして禄を得ているように見える者」や、「行ぜずして証を得ているような者」といった、「さほど努力しているようには見えないのに、きちんと結果が出せている者」です。そういう方々に対して、真摯に道を歩んでいる者ほど、どこかその能力に対して嫉妬心を覚えてしまうことがあるかもしれません。しかしながら、結果が出ている者は、人の見ていないところで努力しているものです。そうでなければ、実力は身につきません。逆に、何も努力していなければ、一時は上手くいっているように見えても、遅かれ早かれ、精進してこなかったがゆえの結果が出てしまうものです。他者にばかり目を向け、その学習や仕事の結果を自分が見える範囲内だけで判断することが、いかにバカバカしいことか。只管に「未だ嘗て学ばずして禄を得る者、行ぜずして、証を得る者を聞くことを得ざれ」という道元禅師様のお言葉を信じて、我が歩む仏道を精進していけばいいのです。そして、それが学道の者の用心であると捉えておけばいいのです。

曹洞宗宗制の中に「曹洞宗布教教化規程(そうとうしゅうふきょうきょうかきてい)」というものがあります。その中で曹洞宗が行う四種類の布教の一つに掲げられる本部布教の一つに「特派布教(とくはふきょう)」があります。規程第13条第1項には、特派布教は曹洞宗の教化部長が指示した地に曹洞宗特派布教師(特派布教を行う布教師)を派遣して行われることが謳われていますが、この特派布教師は、宗務の執行者である内局の選定を経て、曹洞宗管長猊下の任命によって、赴任地での法話を主とした布教活動を行います。

特派布教師は、「大本山布教師」と称されるように(上記規程第13条第2項)、大本山永平寺及び大本山總持寺の大禅師猊下の御代理として、各地で布教伝道を行わせていただくわけですから、まさに仏道修行に励む学道の者であることは勿論のこと、仏教に対する見識やその人格も問われます。ただ話が上手いだけとか、仏教の知識に長けているからというだけでは、選定の対象にはならないのです。

ところが、中には普段の自らの修行や人格形成はそっちのけで、誰よりも実力があると思い込んでいる者もいるようで、先日、そんな自分が、なぜ選定されないのかと言って、周囲に恨み言を発する方のお話をお聞きして、残念な気持ちになりました。「特派」という言葉の重みを今一度踏まえ、日々の学道に力を注ぐことを願うのです。

それは、当然ながら、他人事ではありません。誰にでも当てはまることで、私自身、我が事として重く受け止め、「未だ嘗て学ばずして禄を得る者、行ぜずして、証を得る者を聞くことを得ざれ」のお言葉を胸に、日々を過ごしていきたいと思っております。