三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第28回「学道と学問 ―どんな道にも困難はつきもの―

たとい行に信法頓漸(しんぽうとんぜん)の異あるも、必らず行を待つて超証(ちょうしょう)す。
たとい学に浅深利鈍(せんしんりどん)の科あるも、必らず学を積んで禄に預る。

道元禅師様が「学に浅深利鈍の科あるも、必らず学を積んで禄に預る」とお示しになっているように、学問の場において、浅深利鈍の科(学習能力に個人差があること)はつきものですが、たとえ、どんな困難に直面しようとも、それを乗り越え、学習を積み重ねていけば、その成果が表れると共に、禄(給料)を得ることにもつながっていくのです。

こうしたみ教えに触れながら、ふと、高校生の頃、大学入試に向けて、日々勉強に励んでいた頃が思い出されました。今日のような猛暑の中であろうが、大雪の極寒の中でも関係なく、クラスメートも私も、地元の国立大学や難関の私立大学等、それぞれが目指す志望校の合格を目標に、学を積んでいました。英語・数学・国語・理科・社会、受験に必要な主要五教科の中には、苦手な科目や不得手な分野は必ずあります。それがアキレス腱となって、学習能力に差が生じるのはやむを得ないのですが、そうした困難を乗り越えながらも、学習を積み重ねた者たちの大半が、最終的にはそれぞれが目指した学校に合格することができました。学問も積み重ねによって、段々と能力が磨かれ、「禄を預る」というところにまで到達できるのです。

それと同じように、仏道修行も修行者に能力の違いはあれども、「必らず行を待つて超証す」とあるように、修行を重ねていくことによって超証(悟りを得ること)するものだと道元禅師様はお示しになっています。

この場合の行は、言うまでもなく、「坐禅」です。いつも申し上げますように、お釈迦様を始めとする祖師方は、ご自分の私見や都合など、何ら余計なことを一切交えることなく、ただ只管(ひたすら)に坐禅をやって、やって、やり続け、超証なさったのです。私たちも同じように坐禅を行じ続けていくことによって、超証という機縁に巡り合うことができるのです。

ここで「信法頓漸」という言葉に触れておきましょう。これは凡夫が仏道を修行していく上での4つの段階を指しています。

@信(他者の説に従って信仰を生じ、修行に励むこと) 
A法(自力で仏法を知り、妄念を取り除くこと) 
B頓(速やかに仏法の真意を悟ること) 
C漸(順番を追って修行を進めること) 

学問を行う者に浅深利鈍の差があるように、学道にも信法頓漸という段階の違いがあるということなのです。そうした違いが、ひょっとすると自信喪失や道を歩むことへの断念を生み出す場合があるかもしれません。しかし、こうした差や段階があるのは当然のことで、それを踏まえつつも、学問同様、学道も困難を乗り越え、行を積み重ねていくことによって、最終的には超証へとつながっていくのです。諦めて歩みを止めてしまえば、全てが終わってしまいます。差や段階も仏道修行の道途上には付き物と捉え、仏の行を修していきたいものです。