第16回「首章・拈提H 成道底の道理 ―諸人が有する成道の可能性―」
【拈提】若し諸人の
仏教の始まりは、瞿曇(お釈迦様)が三十歳臘月八日に「我与大地有情、同時成道(我れと大地有情と、同時に成道す)」と獅子吼なさったことに端を発するわけですが、そのお釈迦様の成道によって、後世の仏教祖師方もまた、同じようにして悟りを得ることができたというのが、前回の瑩山禅師様のお示しです。
この点について、瑩山禅師様は「成道底の道理」という言葉を用いて表現なさっています。それはお釈迦様の成道を起点として、諸人(凡夫・一般人)の成道が成立していくということです。確かにお釈迦様と諸人は関わり合い、つながっています。しかし、決して、諸人の成道が起点となって、お釈迦様がお悟りを得たわけでもなければ、お釈迦様だけが成道なさって、諸人が凡夫のまま悟りを得ることができないということでもありません。それらは、まさに「瞿曇の成道にあらず」なのです。
「起点はお釈迦様の成道である」―そこから導き出されることは、誰しも成道の可能性を有しながらも、お釈迦様を指標とし、仏道を精進するならば、等しく成道の機会が与えられているということです。「成道底の道理」を理解していく上で、この点をしっかりと押さえておきたいところです。
こうした「成道底の道理」を踏まえ、今日も我々の仏道修行は行われていくのです。