第17回「首章・拈提I “我”と“与”の参究」

【拈提】成道の道理、親切に()せんと思はば、
瞿曇
(くどん)
、諸人、一時に払却(ほっきゃく)して、早く()なることを知るべし。

前段において、瑩山禅師様がお示しになった「成道の道理」とは、お釈迦様の成道(三十歳臘月(ろうげつ)八日、6年間の坐禅修行の末、お悟りを得たこと)を根底としながら、それと同じように仏道を精進すれば、誰もが同じように悟りを得ることができるというものでした。

この成道の道理を指し示す上で、瑩山禅師様は、お釈迦様が成道なさったときに獅子吼なさったとされる「我与大地有情(われとだいちうじょうと)同時成道(どうじにじょうどうす)」ににおける“我”や“与”という文字にスポットを当てて、着目していらっしゃいます。たとえば、今回は「早く我なることを知るべし」とあったり、この後の段でも「我を明らめ、与を知るべし」とお示しになったりしているように、「我」や「与」というものを参究し、明確にしておく必要性を説いていらっしゃいます。

―「我」と「与」―
この二つは別個に存在するものではありません。深く関わり合いながら一体となって存在しているものです。しかし、別個であると決め込んでみたり、あまり一体であることにばかり目を向けていたりすると、お釈迦様や瑩山禅師様が指し示す道理が中々、見えてこなくなるものです。ときには、これまでの常識や思い込みからの脱却を試みながら、
「我」や「与」が持つ意味を個々に追求し、双方の関係性を把握していくことが、伝光録・首章始め、仏道修行におけるポイントの一つと捉え、道を歩んでいきたいところです。

「与」については、前段等でも既にお示しされているように、「お釈迦様の成道を起点とした各種の姿形や働き」という解釈を基本としていきたいところです。

では、「我」とは何なのでしょうか―?

お釈迦様が獅子吼なさったお言葉にある「我」は、当然のことながら、お釈迦様ご自身を指しているわけですが、それはお釈迦様だけを指しているわけではないようです。勿論、主はお釈迦様なのですが、それも含め、成道の道理をさらに明確にし、具体的に捉えていく上で(親切に会せんと思はば)、瑩山禅師様が「瞿曇、諸人、一時に払却」するとお示しになっているように、「瞿曇(お釈迦様)と諸人(我々凡夫)を一時的に払却(切り離すこと)」して、考えてみる必要があるというのです。これは「“悟りを得た仏”と“未だ仏道が未完成の凡夫”という二見対峙の見解を一旦、捨てた上で考えてみる」ということです。そうすることによって、「我」が明確になっていくということをなのです。

この二見対峙の見解を払却することによって、双方が仏に成れる性質を有したものであることに気づかされるのです。六年間の端坐という仏道修行によって、悟りを得たのが仏なのです。また、そうした修行をしていなかったり、あるいは、修行はしているものの、未だ道途上にあって、成道に至っていないのが、凡夫なのです。一見したところ、全く別物のように見受けられる仏と凡夫ですが、その根底には仏に成れる性質を有しているという共通点があることに気づかされます。この万事が共通して有する「仏に成れる性質」というのが、「仏性(ぶっしょう)」なのです。

そうした「仏性を有する」という共通点の存在を確認した上で、我々凡夫が仏を目指し、いただいたいのちを生きていくことが重要であることは、もはや言うまでもない仏道修行者のあり方です。ここでは、再度、確認しておくに留めておきたいところです。