第18回「首章・拈提J “我”を明らめ、“与”を知る

【拈提】我の与なる、大地有情なり。与の我なる、是れ瞿曇老漢(くどんろうかん)に非ず。
子細
(しさい)
に点検し、子細に商量(しょうりょう)して、我を(あき)らめ、与を知るべし。

「我」と「与」ということについて、瑩山禅師様は「子細に点検し、子細に商量して、我を明らめ、与を知るべし」とお示しになっています。これは『「我」や「与」ということについて、事細かく参究し、明確にしておくように。』ということで、これが仏道修行者に向けた仏と成った祖師からのメッセージと捉えるべきでしょう。「点検」という言葉は現代でも使用されていますが、「点を打つがごとく、一つ一つ調べる」という意味があります。また、「商量」には、「商人が物品売買の際、お互いに値段を相談して定めていくように、丁寧に問答して審議すること」を意味しています。

前段において、「我」とは、「仏性(仏に成れる性質)を有した全ての存在」を指し、「与」は、「成道なさったお釈迦様を起点とした各種の姿形・働き」であると捉えました。お釈迦様が三十歳臘月(ろうげつ)八日に成道なさったとき、「我与大地有情、同時成道」と獅子吼なさったとのことですが、瑩山禅師様は、このお言葉はお釈迦様が成道なさったとき、その周囲に存在する全てのものが仏に成ったことを指し示すものであると解釈をなさっています。すなわち、“今”という時間、“ここ”という場所において、ご自身と周囲の全ての存在とがつながっているということを指し示しているのです。ちなみに、これがお釈迦様のお悟りです。

そして、それは“今”・“ここ”だけに限定されたことではありません。「三世諸(さんぜしょ)(ぶつ)も皆成道す。」とおっしゃられるように、三世(過去・現在・未来)といった時間的な縛りは一切関係なく、過去や未来の仏も皆、お釈迦様の成道によって、同じように成道なさったというのです。

これらを考えあわせていくに、お釈迦様が成道なさったときに獅子吼なさったお言葉には、過去・現在・未来、時間や場所に関係なく、全ての存在がつながり、関わり合い、支え合っているという中で、我の成道によって、大地有情、全ての存在が成道していくということが指し示されているのです。これが「与」という成道の働きです。そして、それが「我の与なる、大地有情なり」の指し示すところです。大地有情、この世の全ての存在は、「仏性」という「仏に成れる性質」を有しているという点では、同じものなのです。

また、「与の我なる、是れ瞿曇老漢に非ず」とありますが、「我」も「与」も大地有情とつながりがあるものならば、瞿曇老漢(お釈迦様)のみに限定されるものではないということを指し示しています。「我」はお釈迦様に限定されたものではなく、仏性を有した全ての存在を指しています。それらが周囲の全ての存在と関わっているという道理を押さえながら、「我」と「与」の参究を続けていきたいところです。