三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事
第29回「精進あるのみ」
お釈迦様がお亡くなりになる間際、お集まりになったお弟子様方に最期のご説法をなさいました。それが「仏遺教経」という経典となって、今日まで伝わっておりますが、その中に、仏道修行者が心がける8つのみ教えが示されています。その中の一つに「精進」があります。「どんなに固い石でも、そこに向かって常に水を流し続けていれば、いつかその石が割れるときがやって来る。それが精進である。」とお釈迦様はおっしゃっています。お釈迦様を始めとする多くの仏教祖師方は坐禅という行を精進し続け、お悟りを得ました。それが仏教の事実であり、今日まで仏教が伝わっている理由です。
私たちはこの事実から学ぶべきです。いかに精進していくことが、人生を生きていく上で大切なことか?生きるということは決して、簡単なことではありません。しかし、苦労を重ね、精進した結果、得られるものはこの上なく大きい、喜ばしいものなのです。そうしたものに巡り合えることが人間として生きていく上での何物にも代えがたい幸せなのかもしれません。
日常生活の中で、「努力をしているようには見えないのに、きちんと結果を出している者」を見かけることがあります。道元禅師様はそれを「学ばずして禄を得る者」、「行ぜずして、証を得る者」とおっしゃっています。そして、そんな人間を未だかつて見たことがないともおっしゃっています。
と言うことは、何らかの結果が出ている人は、人の見えないところで何らかの努力をしているものなのです。そうした場面を見せないがゆえに、周囲も誤解してしまうのでしょう。本人は精進しているのに、精進していないように見えるだけなのです。その点もまた、再確認しながら、精進の大切さを押さえておきたいところです。
そうした精進なくしては、何もなし得ないという真理を、道元禅師様は「独り王者の優と不優と、天運の応と不応とに由るべきに非ざるか。」という言葉でお示しになっています。国王大臣が優れていようが、そうでなかろうが関係ありません。運の良し悪しは全く関係ありません。今の自分の状況が国策や運勢に左右されて決まるものではなく、自分自身の精進努力によって決まっていくものだということです。
だから、世間や周りの人間が悪いのではありません。周囲に責任を押し付けず、何事も自分の言動によって生じることを心得て、精進しながら、いただいたいのちを生きていきたいものです。