第19回「首章・拈提K“我”と“与”の参究における留意点」

【拈提】(たと)ひ我を(あき)らめたりといふとも、与を明らめずんば、
()一隻眼(いっせきげん)を失す。(しかり)(いえど)も我と与と一般(いっぱん)に非ず、両般(りょうはん)に非ず。

瑩山禅師様は前段において、「我」と「与」ということについて、「子細(しさい)に点検し、子細に商量(しょうりょう)して、我を明らめ、与を知るべし」とお示しになっていました。そうやって、「我」や「与」を事細かく参究し、明確にしたとしても、「我を明らめたりといふも、与を明らめずんば、亦た一隻眼を失す」とあるように、「我」のみを明確にし、「与」は明確にしないといった、偏った参究をしているようでは、片方の眼を失ったような状態になると、瑩山禅師様はおっしゃっています。「一隻眼」というのは、「正しい見識」のことで、仏眼(仏のモノの見方)です。「一隻」には「2つあるものについて、そのうちの一方」という意味があります。

果たして、2つの眼があるならば、両方とも肉眼(凡眼)といった凡夫のモノの見方をする目なのか、あるいは、一方が肉眼(凡眼)であれば、もう一方は、仏眼(正しい見識を有した仏の眼)なのか、はたまた、双方の眼が仏眼なのか、我々が仏道を修し、歩んでいく上で、「我」と「与」の双方を子細に参究しなければ、一隻眼(正しい見識)を失うことになりかねないという瑩山禅師様のお示しを踏まえるとき、我がモノの見方が仏眼となるよう、自らの眼を磨いてくことの重要性を思わずにはいられません。

そして、瑩山禅師様は続けます。「我と与と一般に非ず、両般に非ず」と。「一般」は「同じもの」、「両般」は「両方、二種類」の意を有します。「我」と「与」は、決して、「同じもの」ではありません。それは、これまで参究してきた通りです。仏に成れる性質を有した全ての存在である「我」は、その一つであるお釈迦様(瞿曇老漢(くどんろうかん))が坐禅修行によって、お悟りを得た際に、時と場所を超えて、全ての存在がつながっているがゆえに、皆、瞿曇老漢のごとく仏道修行に励むならば、いつか必ず仏のお悟りを得られるときがやって来ることが証明されたのです。それが「与」の意味するところです。

また、「我」と「与」は別々のものでもないと瑩山禅師様はおっしゃっています。
両者は違うものではあるものの、相互に関連し合い、一体となったものなのです。そうやって「仏」という存在が成り立っていると解すべきでしょう。

こうした「我」と「与」について、どちらか一方に偏った形で参究をしても、仏の道にはたどり着きません。双方、個別の存在ではあれども、一体のものとして捉えてくことが、「我」と「与」の参究において、瑩山禅師様が指し示す留意点なのです。