三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第30回「只管(しかん)に行ずるのみ」

若し学に非ずして(ろく)を受くる者ならば、誰か先王理乱(せんおうりらん)の道を伝えん。
若し行に非ずして、証を得るものならば、誰か如来迷悟(にょらいめいご)の法を了ぜん。

今の自分が置かれている状況というのは、周囲の誰かによってもたらされたものでもなければ、外部環境の変化によって生じたものでもありません。自分自身がその都度その都度、様々な状況判断をしながら、自らが歩む道を選択した結果が今なのです。ですから、他者に責任を求めても、それは無意味なことでしかなく、やはり、自分のことは自分で決め、自分で責任を取るというあり方が求められていくのです。

そうした意味で、「精進あるのみ」という前回の演題を今一度、心に留めておきたいものです。我が言動に責任を持ちながら、仏のお悟りに向かって、日々、仏の行を精進していくのです。

そんな前回を踏まえ、今回は「只管に行ずるのみ」という演題を掲げました。「只管」は「ひたすらに」ということです。「学に非ずして禄を受くる者ならば、誰か先王理乱の道を伝えん」とあります。学ぶことなしに禄(給料)を得る者が、先人の名君の道など正確に伝えることなどできないのです。同じように、ろくに仏道修行もしていない者が、お釈迦様のみ教えなど伝えることはできないのです。それが「行に非ずして、証を得るものならば、誰か如来迷悟の法を了ぜん」の指し示すところです。

これは布教の道を歩む我が身にとっては、是非とも、心しておきたい一句です。仏道を歩むとは言いながらも、未だ御仏の足下にも及ばぬ行を続けている身にとって、幾多の困難を乗り越えながら、長年に渡って、仏の道を歩んできた先達のご老師だからこそ、そのお言葉が悩める人々の心に染みわたり、明日からの日々を前を向いて歩んでいこうという気持ちになれるものだと思わずにはいられません。

とは言え、まだまだ未熟な身でありながらも、布教の現場から要請があれば、どんなことがあっても辞退せずに赴く姿勢が大切だとも考えています。ここ2年半はコロナ禍で布教の場も皆無に近い状態でしたが、多少は“ウィズコロナ”という状況が定着してきたのか、10月にかけて、3件の依頼をいただいております。こんな自分に対しても、声をかけてくださる方がいらっしゃることを大切に受け止めながら、いただいたお役目をしっかりと全うしていきたいと思っています。―「只管に行するのみ」―坐禅を始め、日々の行を丁寧にこなしながら―。