第20回「首章・拈提L 仏性を信じて」

【拈提】(まさ)に汝等の皮肉骨髄(ひにくこつずい)、尽く与なり。屋裏(おくり)の主人公、是れ我なり。皮肉骨髄を(たい)せず、四大五蘊(しだいごうん)を帯せず。

仏道を歩む上で、仏に成れる性質を有した存在である「我」と、仏と成ったお釈迦様を起点とした各種働きを意味する「与」。この双方を細部に渡って参究し、明確にしていくことが大切であると瑩山禅師様はお示しになっています。そうした「我」や「与」について、別の角度から考察を加えているのが、今回の一句です。

まず、「汝等の皮肉骨髄、尽く与なり」とあります。「皮肉骨髄」というのは、私たちの身体を構成する皮・肉・骨・髄のことで、これらの要素が集合して、私たちが存在するわけですが、そのことを踏まえた上で、諸仏諸祖が指し示す真理や大法を解していくのが、「皮肉骨髄」の説かんとしているところです。ここでは瑩山禅師様は、私たちの皮肉骨髄の集合体である身体そのものが「与」という、仏の修行を行じ続けることによって、仏に成れる可能性を有していることを再度、お示しになっています。すなわち、誰もがご先祖様から代々伝わるいのちをいただいて生かされていますが、ご先祖様からいただいた肉体には、仏に成れる要素が含まれているということです。そこに気づくとき、そうした素晴らしい肉体をいただいて生かされていること自体が、何物にも代えがたい幸せであることを思わずにはいられません。だから、先祖への感謝が芽生え、その恩に報いるべく、仏のみ教えに従って仏の生き方を行じていくことが求められていくのです。

次に、「屋裏の主人公、是れ我なり」とあります。屋裏は自分の家、すなわち、皮肉骨髄から成る自分の身体のことを、また、主人公は仏法を、それぞれ例えたものと解釈を施します。これは誰もが有する仏性(仏に成れる性質)を意味し、「我」を指しているのです。

明珠在掌(みょうじゅたなごころにあり)」という禅語がありますが、「明珠(宝物)は、どこか遠くの秘境の地のような場所にあるのではなく、実は自分の手中という、身近な場所に存在している」というのです。我々は、それを知ろうともせず、どこか遠くにあると思い込んでいるのです。そんな思い込みに捉われながら、遠くばかりを求め、日々の地道な修行を続けようとしないがために、中々、仏に近づけないでいるのです。そのことも押さえておきたいところです。

「皮肉骨髄を帯せず、四大五蘊を帯せず」―「四大」は「地・水・火・風」という、この世の全てを構成している要素、「五蘊」は「色・受・想・行・識」という、四大の構成要素を指しています。我々の皮肉骨髄というのは、そうした要素の集合体でありながら、仏性という仏に成れる性質を有するがゆえに、各種要素を超えた存在なのです。だからこそ、仏に成れる性質を信じて、毎日を精進して過ごしていきたいのです。