三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第31回「行を迷中に立て、証を覚前に()る」

()るべし、行を迷中に立てて、証を覚前に()ることを。

日々の生活の中で、只管に坐禅を行じ、仏道修行に励むのが、仏道修行者のあり方です。私たちの日常というのは、迷いや苦悩の連続です。なぜならば、そこに生きる人間たちは、自分の中に生じた好悪や良し悪し等の感覚を以て、認めるものとそうでないもの等、分別の念を起こしながら生きているからです。こうした普段の何気ない分別という感覚によって引き起こされるのは、選ばれたものとそうでないものを生み出すといった、特定の存在だけが救われるという事態です。当然ながら、万事が苦悩から救われることを願う仏教の観点から見れば、救われるものとそうでないものが生じてしまうこと自体が、あってはなりません。皆が平等に救われることを願うからこそ、迷いに満ちた世界の中に仏のみ教えを行じていくことが求められていくのです。それが「行を迷中に立てる」の意味するところです。

それと対を成すかのように示されているのが、「証を覚前に獲ること」です。「証(悟り)を目覚めの前に体得する」ということですが、私たちが毎日、只管に仏道を精進していくことによって、いつか必ず仏のお悟りに近づけるというのは勿論のこと、「一寸坐れば一寸の仏」と言われるように、仏行である坐禅をそのまま行ずることもまた、仏の悟りを行じていること他ならないのです。まさに、悟りという本当の目覚めの前の証なのです。

「行を迷中に立てる」とか、「証を覚前に得る」ということについて、道元禅師様は「識るべし」という言葉を前置きしていらっしゃいます。これは「しっかりと心得ておくように」という意を有した言葉で、いかに道元禅師様が学仏道の日々を過ごす中で、重要視しているかが伝わってきます。まさに、ここは仏道修行者の心がけ・用心として押さえておくべきポイントです。

ここ数日、日常生活における様々な問題を抱える方々の声をお聞きしながら、問題解決に向けて動き回る毎日を過ごしてます。こうした諸問題の根底にあるのは人間関係であり、その原因の大半は、道元禅師様がおっしゃるように、人間なるがゆえに生じてしまう分別ゆえの迷いが占めています。

そうした迷いの世界の中にあって、坐禅という行を通じて、皆が喜び、幸せになる道を模索していきたいと願う今日この頃です。