三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第32回「船筏(せんばつ)の昨夢を知り、藤蛇(とうだ)旧見(きゅうけん)を断ず」

時に始めて船筏(せんばつ)の昨夢を知って、永く藤蛇(とうだ)旧見(きゅうけん)を断ず。

―迷いや苦悩が尽きぬ娑婆世界―
この中で、人々は何らかの課題や問題というものを抱えながら、日々を過ごしています。私は若い頃、私たちの人生は苦しみの連続であると教わりましたが、40歳を超えた今、それを素直に受け止め、眼前の諸問題と向き合っていかなくてはならないことを痛感する毎日を過ごしています。

私は今、人間関係に端を発する問題を何点か抱えながら、その解決に向けて奔走する日々を過ごしております。それらの問題を見るに、関係者の中の誰か一人でもいいから、我が身を優先しようとする意識を捨てて、相手の言葉や考え方を受け止めてさえくれれば、解決の方向に向かうような気がします。要は娑婆世界における苦悩の原因は人間関係が大半を占めるとは言いながらも、それを生み出すのは、「我が身を最優先すること」に捉われた人間たちであるということです。

今回の一句の中に「藤蛇の旧見」という言葉が用いられていますが、藤やつた、あるいは、蛇といった何に対しても巻き付き、束縛する存在は、まさに人間の執着の象徴のような存在です。「旧見」は長年の習慣等によって身についてしまったモノの見方や考え方のことで、それが我々人間の思い込みの元です。そして、こうした旧見が藤蛇のごとき人間の執着というものを生み出していくと言うのであれば、それを断ち切る必要性が出てきます。それを学道の用心として心得ておきたいところです。

また、旧見や思い込みに対する執着を断ち切るという点で、「船筏の昨夢を知る」という視点も、押さえておきたいところです。「船筏」は、その名の示す通り、こちら岸から向こう岸に渡る船のことですが、仏教では私たちが生かされている娑婆世界をこちら岸(此岸(しがん))とし、仏の世界を向こう岸(彼岸(ひがん))と捉えます。それを踏まえ、此岸にある者が、仏のみ教えを聞いて、彼岸の地を目指すべく仏道修行に励むことを仏教は説くわけですが、そうした彼岸に渡るための船筏でさえも、昨日の夢のごとく(はかない)いものであり、捉われるべきものではないと道元禅師様はおっしゃっているのです。

学道の第一の用心である「菩提心(ぼだいしん)(おこ)すべき事」において、「法執すら尚おなし」という一句がありました。これは仏法に対しても執着してはならないというみ教えです。と申しますのは、学道の者にとっては、帰依すべき仏法も、あまりそれを絶対視しすぎてしまうと、まわりに仏法への帰依が薄いと感じる者がいた場合、不信感を募らせ、暴言を発する等の言動に出てしまう恐れがあるからです。

たとえば、トラブルの仲裁に際し、お釈迦様のみ教えを示せば解決するだろうと思って、提示してみたものの、予想に反して悪化してしまったということもありました。なぜ、絶対的な仏法で問題解決につながらなかったのかと言うならば、言葉を発する側が法を絶対視し過ぎたことと、受け取る側の法に対する理解が不十分であったからです。法を示せば、絶対に解決すると思っていたら、豈計らんや、そうとも言えないこともあるのです。これは法に捉われすぎると、逆効果になる場合があるという典型的な事例です。やはり、普段から法と共に生きることを基本とつつも、日常の言葉を用いて、相手に合わせ、応じた形で提示していかなければ、せっかくの法も効果的に生かすことができないのです。

たとえお釈迦様のみ教えであっても、信じすぎることによって、執着を生み出し、その目指すところからかけ離れていくことは起こり得ます。今一度、そのことを再確認すると共に、何事もあまり捉われることがないように留意していきたいものです。