第21回「首章・拈提M 皮袋あってこそ」
【拈提】畢竟して言はば、庵中不死の人を識らんと欲せば、
豈今這の皮袋を離れんや。然れば大地有情の会をなすべからず。
「庵中不死の人を識らんと欲せば、豈に今這の皮袋を離れんや。」は釈尊相承35祖・中国の石頭希遷禅師(700−790が撰述した「草庵歌」の末尾の一句です。「草庵歌」は石頭禅師が大きな盤石の上に草庵を結び、坐禅三昧の日々を送っていたときに、悟りの境地を歌ったもので、庵中不死の人とは、誰もが本来有する仏性をたとえたもので、庵は肉体、不死人は仏性を指します。
前回、「皮肉骨髄」という言葉が用いられていましたが、皮・肉・骨・髄の集合体である我々の身体が「皮袋」です。「与」という、皮肉骨髄の固体を超えた「仏性(仏道修行を行じ続けることで、仏の悟りに近づける性質)」を有する存在としての我が身を考えるとき、やはり「皮袋」の存在あってこその悟りであり、皮袋を原点・基本として、私たちは仏のお悟りに近づけると捉えていくべきことに気づかされます。
突き詰めてを言えば(畢竟して言はば)、仏性を有した我が身を考えていくとき、皮袋たる我が身を考慮することなしに、正確に我が身を捉えていくことはできないというのです。我が身がどういう性質を持ったものなのかを考えていくとき、やはり仏性を有しているという点を抜きにして正確な把握などできるはずがなく、我が身と仏性の存在を明確に関連づけながら、皮袋というものを捉えていくべきなのです。それが「庵中不死の人を識らんと欲せば、豈に今這の皮袋を離れんや。」の意味するところです。
だから、「大地有情の会をなすべからず」とあるように、この世の一切の存在は集いをなしているのです。それは、お釈迦様が六年端坐、三十歳臘月八日にお悟りになったお互いに関わり合い、支え合って生かされているという、この世の道理なのです。