三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第34回「行の招く所は証なり」

(いわ)んや、行の招く所は証なり。自家(じか)宝蔵(ほうぞう)、外より来らず。
証の使う所は行なり。心地の蹤跡(しょうせき)()に回転すべけんや。

ピーク時から見れば減少したとは言え、依然として、新型コロナウイルスの感染者数は高止まりしています。しかしながら、感染症対策の把握やワクチン接種の浸透によって、コロナに対する、かつてのような不安感は薄まりつつあるように思います。今年に入り、地域のお祭りやイベントが“3年ぶりの開催”という枕詞を付されて、再開しておりますが、寺院の行事も少しでもコロナ禍の前のような形で再開していかなくては、どんどん人々の記憶の中から消えていってしまうのではないかと不安を覚えます。

そんな中で、高源院では去る6月19日より2年近くに渡って休止していた坐禅会を現地とオンラインの同時開催にて再開いたしました。また、本務寺院である松山寺でも坐禅希望者とのご縁によって、9月から毎週土曜日の早朝に不定期ではありますが、坐禅会を行うようになりました。本日(令和4年10月22日)早朝、3名の方と共に松山寺坐禅堂にて40分の坐禅を行じました。坐禅を終えて、初めての経験をなさった二人の参禅者に感想をお聞きしました。自分の心の中に存在している煩悩などがそっくりそのまま見えてきたという方、坐禅中における目の置き所から、中道という偏らない仏の道を学ばれた方、様々な発見があると共に、参禅者と共に坐禅を行じられる喜びを存分に味わいながら、次回(11月5日)の再会を誓いあって、朝の貴重なひとときを過ごすことができました。

今回の一句に「行の招く所は証なり」とあります。坐禅という行が行きつくのは悟りです。先の参禅者のように、一回の坐禅(仏行)によって、自分の心の中が見えるということは、まさに坐禅という行によって、悟りへの第一歩を踏み出したということなのです。

次に「自家の宝蔵、外より来らず」とあります。「宝蔵」は、「仏法そのもの」であり、「仏性」という、「誰もが有する仏に成れる性質」を指します。「自家」とありますから、「自分の家」、すなわち、「自分の中に存在している仏法や仏性」ということであり、それが外から来ることがないのは、もはや言うまでもありません。坐禅という行によって、自分の心の中の状態に気づくように、坐禅を重ね行じていく中で、自らの中に存在する仏性に気づくときが訪れるのです。

そして、「証の使う所は行なり」とあります。証(悟り)は行から生じるものであり、行によって為されていくものであるということです。「心地の蹤跡、豈に回転すべけんや」−「蹤跡」は「跡形」を指しますが、禅の世界には「無蹤跡(しょうせきなし)」という言葉があるように、足跡は残らない、すなわち、あまり先人が残した業績にばかり捉われないことを説きます。日々の生活の中で人間は様々な足跡を残していきます。そうやって生きてきた間に残した足跡は、死後も完全に消えるのではなく、ある程度は形を残すもので、それが「回転」ということです。しかし、そうやって残った足跡ばかりを求めていれば、中々、自らの中に存在する宝蔵に気づくことがないままに終わるかもしれません。足跡ばかりを追うことなく、先人の生き様を真似ながらも、自らの力で自らの道を求めていく姿勢を持つことの大切さを説くのが、「心地の蹤跡、豈に回転すべけんや」の意味するところなのです。

感染状況が高止まりのまま落ち着きを取り戻しつつある今日この頃ですが、少しでも社会にお寺の扉を開き、多くの人と禅の世界の素晴らしさを共有していきたいと思っております。