第22回「首章・拈提N 万像之中独露身(ばんぞうしちゅうどくろしん)

【拈提】(たと)ひ春夏秋冬に、転変(てんぺん)し来りて、山河大地(せんがだいち)
時と与に異なりと(いえど)も、知るべし、是れ瞿曇老漢(くどんろうかん)の、揚眉瞬目(ようびしゅんもく)なる故に、
万像之中独露身(ばんぞうしちゅうどくろしん)なるなり。撥万像也(ほつばんぞうなり)不撥万像也(ふほつばんぞうなり)

今朝方、お檀家さんの宅に月参りにお伺いいたしましたところ、開口一番、「すっかり寒くなりましたね」という言葉を交わしました。先日お伺いしたお宅はファンヒーターが出ていたりと、つい一カ月ほど前までは「暑い、暑い」と言っていたのが嘘のように、夏は過ぎ、秋の真っ只中を迎えています。「春夏秋冬に、転変し来りて、山河大地、時と与の異なり」−時間の流れとの関わりの中で、今・ここ、山河大地に存在している全てが変化していくという、この世の道理が指し示す一句です。

そうした中で、瑩山禅師様は、「知るべし」と修行僧たちにおっしゃいます。瑩山禅師様は何を学道の者たちにお伝えしようとなさっているのか?−それが「瞿曇老漢の、揚眉瞬目なる故に、万像之中独露身なるなり」です。

「揚眉」とは「眉を上げる」ことで、「瞬目」は「まばたきをすること」です。お釈迦様(瞿曇老漢)が眉を上げ、まばたきをするという場面で思い起こされるのは、お釈迦様が迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に法を伝えた「世尊拈華微笑せそん(ねんげみしょう)」の故事です。これは、大勢の修行者が集う場において、お釈迦様がまばたきをしながら、金波羅華(こんぱらげ)(金色の蓮の花)を示したとき、その意を介さぬ者ばかりがいる中で、ただ一人、迦葉尊者のみがその意を得て、にっこりと微笑んだことによって、お釈迦様が迦葉尊者に正法を伝えたというものです。次に「万像之中独露身」ですが、宇宙万象の中において、何事にも依存したり、捉われたりすることなく、ただ一人、堂々とその絶対的な姿を露わにしている存在があるということを説いています。すなわち、この世の全ての存在が「万像之中独露身」という唯一の存在であるということであり、これこそが瑩山禅師様が今回の一句の中で特に我々に強く訴えたかった箇所なのです。

仏法は瞿曇老漢の揚眉瞬目によって、迦葉尊者に伝わり、以降、インド・中国・日本と時間と場所を超えて脈々と伝わってまいりました。その仏法において、「万像之中独露身」というのは、一人一人の人間が異なる絶対の存在でありながらも、誰もが「仏性」という「仏に成れる性質」を有していることをも説き示しています。仏法を伝えてきた師と弟子が仏性を持った者同士であった―だからこそ、仏法は伝わってきたのです。我が身が「万像之中独露身」であることを再確認するとき、このいただきもののいのちが尽きる日が来るまで、仏性の花が開花できるように、毎日を過ごしていきたいと願うのです。