三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事
第35回「
一翳
前段において、道の先人が残した足跡にさえも捉われることなく、自らの中に存在する「自家の宝蔵(仏性)」に気づき、それを求めていく姿勢を持つことが、学道の者にとって大切であることが指し示されました。
然り而して(それを受けて)、「若し証眼を回らして、行地を顧みれば」―「悟りの眼で以て、自分たちの仏道修行を顧みたとき」、「一翳の眼に当たるなし」と瑩山禅師様はお示しになっています。「翳」は「目がかすんで見えない状態」を指します。悟りの眼で自分たちの修行を確かめてみると、我が眼を眩ませるものは何一つないと言うのです。すなわち、私たちが坐禅を行じていれば、その姿は、たとえ凡夫のものであったとしても、仏の行いを行じているがゆえに、何の曇りも傷もない、純粋な仏そのものだということなのです。それは、仏の行を行ずれば、仏であり、仏そのもののになっているということでもあります。
そんな「一翳の眼に当たるなし」という仏の悟りの境地というものは、「白雲万里」であると道元禅師様はおっしゃっています。思慮分別を超えた、何の捉われもない、まるで青空に浮かぶ白雲のごとく、誰にも邪魔されぬ自由な存在のごときものであるというのです。「自由」というのは、そうした何事にも捉われることなく、支配されることもなく、強制されることもなく、自分の意思で、思うがままに行動することです。決して、自分の好き勝手に、わがまま放題に振る舞うことではありません。自由の意味をはき違えては大変なことになります。自分という存在は、あくまで娑婆世界の一存在として、周囲の様々な存在とつながり、関わり合いながら生かされているということを大前提としながらも、仏の行を重ねていくことによって、我が身を縛る様々な執着から解き放たれていくと共に、仏のお悟りへと近づいていくことなのです。それが「白雲万里」が指し示す「自由」なのです。
そうした「自由」の境地が体得できるよう、毎日を過ごしていきたいものです。