第24回「首章・拈提P 自らの言葉で語る」

【拈提】恁麼(いんも)公案(こうあん)子細(しさい)見得(けんとく)し、一一に胸襟(きょうきん)より流出(るしゅつ)して、
前仏
(ぜんぶつ)
及び今時(こんじ)の人の語句をからず、次の請益(しんえき)の日を以て下語(あぎょ)説道理すべし。

「恁麼の公案(このような仏祖のみ教え)」ということですから、前段において示された「横参竪参(おうさんじゅさん)七通八達(しちつうはったつ)して、(まさ)瞿曇(くどん)悟処(ごしょ)を明らめ、自己の成道を得すべし」を指していることは言うまでもありません。縦横斜め、様々な角度からお釈迦様がお悟りになったことを確かめることによって、自らの成道ということを体得していくことが仏道修行における要の一つであり、そうした捉え方をしながら、仏道を極めていくことが、「子細に見得する」ということなのです。

仏道修行者の日常というのは、「横参竪参し七通八達」しながら、お釈迦様のお悟りを明確にしていくことです。そして、そうやって自分自身が次第に仏に近づいていくのです。これは仏道に限らず、芸術でもスポーツでも学問でも、どんな道においても通ずる道を参究していく上での大切な姿勢です。

こうした道の参究の中で、ときには先人の生き様であったり、現時点で道の最前線を歩む方の成功例や体験が大いに参考となることもあるでしょう。仏道修行者にとっては、前仏(過去に仏に成った祖師方)であったり、今の時点で行事綿密な仏道修行者の言葉が参考になることがあるということです。

ただ、あまり先達ばかりを求め、他者からの借り物によって道を理解していこうとしても、確実に何かを得られるものではありません。たとえ得るものがあったとしても、それはほんの一握り程度のものなのです。やはり、自らの身で以て道を行じてこそ、道というものは身についていくので、坐禅という仏に成る修行を繰り返していく中で、自らの言葉で以て仏道を語れるようになっていくのです。それは、どんな道にも当てはまりまるもので、こと仏道の世界においては、それが子細に見得した修行者ではないかという気がいたします。「一一に胸襟より流出して」とあります。日頃から仏道修行に励むがゆえに、自分の中から沸々と仏の道理が言葉や思想になって沸き起こっていることを指し示しています。なぜ、そんなことが起こるかと申し上げるならば、自分自身が仏と成っているからに他ならないからです。

以上、これまでの瑩山禅師様から仏道修行者に示されたお釈迦様成道に関するお示し(拈提)を踏まえ、瑩山禅師様は「次の請益の日を以て下語説道理すべし」と修行者たちにおっしゃいます。「請益」は修行者たちが師匠に教えを求めることによって、自らを益していくことです。瑩山禅師様が2代住持職をおつとめでいらっしゃった頃の大乘寺(だいじょうじ)様には、修行僧たちが瑩山禅師様に直にみ教えを求める請益の機会というものが存在していたのでしょう。

そんなときに、「下語説道理すべし」と瑩山禅師様はおっしゃっています。「下語」は会下の修行者たちが教えを求めてきたことに対して、師が指し示す簡易な言葉です。この下語によって、「説道理」、すなわち、「道理を説く」というのです。道に迷ったとき、どうすれば正しい道を歩んでいけるのか、その的確な道先案内ができる師の元には、方々から修行者が集います。そして、そうした修行者たちが道を究め、仏と成り、仏のみ教えが広まっていくことを、仏教の長い長い歴史が証明しています。道を求める者、道を案内する者、双方の存在によって、お釈迦様のみ教えが今日まで脈々と伝わってきた事実を、改めて、再確認しておきたいところです。