三、仏道は必らず行に依つて証入すべき事

第36回「修証一等(しゅしょういっとう)の修行観」

()行足(ぎょうそく)()して、証階(しょうかい)()すれば、一塵の足に受くるなし。
(まさ)に踏まんとすれば、天地懸隔(てんちけんかく)す。

お釈迦様は坐禅を行じていく中で、悟りを得たということですが、坐禅そのものが仏の行いであり、それを行じているときは、たとえ凡夫であっても、仏であり、仏と成っているという捉え方をします。

坐禅を行じ重ねていくことは、あたかも悟りという大目標・ゴールがあって、そこに向かって、一歩一歩階段を上っていくような印象を覚えます。それが「行足を挙して、証階に擬する」の意味するところです。

ところが、そういう捉え方は「一塵の足に受くるなし」や「天地懸隔す」とあるように、一微塵の微細なものさえも得ることはできないし、「天地遥かに隔たる」と言わんばかりに、本当のところから大きくかけ離れていってしまうというのです。坐禅という仏の行いを行ずることそのものが悟りであり、修行を重ねて悟りを得るというよりも、仏道修行そのものが仏のお悟りの行いであるという捉え方をすることを、ここでは押さえておきたいと思います。それが「修証一等(しゅしょういっとう)」だとか、「修証一如(しゅしょういちにょ)」といった修行観なのです。