第23回「首章・拈提O
【拈提】
又地蔵曰く、
然あれば、
自己の成道を会すべし。
中国五家七宗の一つである
中国における禅宗の歴史については、住職もまだまだ参究の余地を残しておりますが、禅宗法系譜(禅宗における仏法が誰から誰へと伝わっていったかが図示された系譜)を拝見するだけでも、相当数の僧侶のお名前や系譜が確認できます。お釈迦様から伝わる仏法が達磨大師(生没年他説あり)によって中国にもたらされましたが、中国では、それが幾多にも広がりながら、中には今日まで続く系譜もあれば、残念ながら消えてしまったものもあることに気づかされます。日本には道元禅師様が天童如浄禅師(1162−1227)の下で仏道修行に励まれたことによって、もたらされましたが、いかにお釈迦様の仏法が途絶えることなく今日まで伝わっていることがすごいことなのかを、改めて感じます。
そうした国を超え、時を超え、多くの人から人へと伝わってきた「瞿曇の悟処(お釈迦様のお悟り・み教え)」というものは、決して、一点だけで捉えるべきものではないことは、言うまでもありません。「横参竪参」―縦横様々な角度から自在に参究すべき「七通八達(万事に通ずること)」のみ教え・お悟りと理解すべきです。正解を一つに絞るような一点に捉われた解釈では、そこから外れた解釈の排除につながります。そうした捉え方では、仏法を正しく理解しているとは言えません。時には横から捉え、また、別の時には縦から見ていくような、様々な角度から柔軟に捉えていくのが、お釈迦様のみ教え・お悟りであることを、ここでしっかりと押さえておきたいところです。そして、私たちも柔軟な捉え方や解釈というものを仏法から学び、身につけていきたいと願うのです。それが瑩山禅師様のおっしゃる「自己の成道を会す」ということなのです。