四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること

第38回「先達の真訣(しんけつ)()ける―仏道を歩む上で―

右、佛法修行は、必らず先達の真訣(しんけつ)()けて、私の用心を用いざるか。況んや佛法は有心を以て得べからず、無心を以て得べからず。

坐禅を中心とする「佛法修行」というのは、道元禅師様が「無所得無所悟の坐禅」(正法眼蔵随聞記)等のお言葉でお示しになられたように、一切の見返りや期待を求めることなく、ただ一心に先達の真訣(過去の仏教祖師方が行によって伝えてきた仏の行・み教え)というものを、自らもそっくりそのまま真似て、行じていくことなのです。

「佛法修行」ということに対して、ひょっとすると、中には自分の成長だとか、他者から立派な人だと思われたいといった何らかの期待や見返りを以て望んでいる方もいらっしゃるかもしれません。かく言う、私自身もそんな一人でしたし、先達のお言葉をお借りすれば、道元禅師様ご自身も、最初はそうした心持ちで仏道修行に臨んでいらっしゃったのが、周囲の様々なご縁をいただきながら、次第に心持ちが変化していったのではないかとのことです。何かしらの見返りを求めて修行に臨むことは、最初は誰しも通る道なのかもしれません。しかし、必ず気づくときがやってきます。自分に対する名誉利益を求めることは佛法修行は不要どころか、却って、我が身を仏の道から遠ざけてしまうだけだということに―。


こうした我が身にプラスになるような期待感を持ったまま仏の道に励む心持ちを、道元禅師様は「有所得心」という言葉で表現なさっています。本文中にある「有心」は「有所得心」のことを指していますが、そんな有所得心を持ったまま佛法修行に臨んではならない、かと言って、「無心」といった「有心」とは真逆の、一切の意識作用が消滅した心の用い方でもない、心の有無に捉われるのではなく、ただ只管(ひたすら)、仏のために、我が身を用いて仏道を歩んでいくというのが、今回から示されていく学道の者の用心なのです。

「先達の真訣を禀ける」ということについて申し上げるならば、これは佛法修行を行じていく上で、絶対に外してはならないところです。なぜならば、先達は道先案内人であり、自分の考えを絶対視し、先達を無視して道を歩むことは、「有所得心をもって、佛法を修す」ことにつながっていくからです。有無にこだわることなく、私心を捨てて、佛法修行に生きることを、学道の用心として確認し、しっかりと学んでいきたいものです。