第27回「第一章・機縁@ 三十一相を
【機縁】
梵
尊者生
因
唯
お釈迦様のお悟り・み教えを受け継いだ高弟・摩訶迦葉尊者―その出生や身体的特徴が瑩山禅師様より詳細に説明されていくのが今回の一句です。
まず、「姓は婆羅門」とあります。後に「ヒンドゥー教(インド教)」がインド国民の民間信仰宗教として普及していきますが、その起源となるのが「婆羅門経(バラモン教)」で、ヒンドゥー教に基づく四つの区分の最上位と位置付けられるのが「婆羅門」です。参考までに下記の一覧表において、ヒンドゥー教における「四姓制度」に触れておきたいと思います。
婆羅門 | バラモン | 僧族・司祭者 |
刹帝利 | クシャトリヤ | 王族・士族 |
毘舎 | ヴァイシャ | 庶民(農工商) |
首陀羅 | シュードラ | 奴隷族 |
こうした四姓制度を見てみると、かつての日本も江戸時代に「士農工商」の身分制度がありました。いずれも共通するのは、人間を出生の違いで区別し、差をつけてしまうことになった社会制度であるということです。当然ながら、現代社会においては憲法等によって、身分制度は勿論のこと、それに基づく差別行為は禁止されていますが、私たちは、こうした事例を前に、決して、過去の歴史的事実として終わらせるのではなく、これからの時代においても同様の差別意識を持つことがないよう、意識しながら毎日を過ごしていきたいものです。
ちなみに、婆羅門には四つの段階があるとされています。最初は「
迦葉尊者の生没年等は詳細が不明ですが、この婆羅門の四つの段階から想像するに、お釈迦様と霊鷲山にてお会いしたのは、20歳を過ぎた家住期ではないかと考えられます。すなわち、婆羅門として更なる修行を重ね、精進していらっしゃったという、比較的、意識も高く、純一無雑な言動を取っていた頃にお釈迦様との出会いがあったのではないかということです。ひょっとすると、そうした意識の高さ、懸命に生きる姿があったからこそ、お釈迦様が掲げた金波羅華の意を唯一、解することができたのではないでしょうか?当時のインド(梵)の社会の様子や、そこに生かされている人々の日常と絡めながら、伝光録を読み解いていくと、やはり味わい深いものを感じずにはいられません。
そんな迦葉尊者の別名が「飲光勝尊」です。これは瑩山禅師様もご説明になっているように、迦葉尊者がお生まれになったとき光が差してきて、室内に充満していくと共に、迦葉尊者がその光を浴びて、「其身金色」とあるように、身心共々に輝かしい存在であったことを意味するものです。まさに迦葉尊者の姿形は、お釈迦様の法を受け継ぎ、その後継者として次世代を生きていくに相応しいものであったということでしょう。
ただ、瑩山禅師様はおっしゃいます。「三十一相を具足せり。唯、烏瑟白毫の欠けたるのみ」と。インド古来の伝説には、『全ての人は「三十二相」という32の相を具えているが、これを確実に表出させる者は、俗にあっては転輪王に、出家にあっては悟りを得る」と言うのです。三十歳
それに対して、瑩山禅師様は「迦葉尊者は三十一相までは表出させている」とおっしゃっています。すなわち、お釈迦様と見比べてみると、かなりお釈迦様に近づいた存在でありながら、ほんの一つ、表出していないものがあるがために、「三十一相を具足せり」とおっしゃるのです。
その迦葉尊者に欠けているという「烏瑟白毫」というのは、「
限りなくお釈迦様に近い存在でありながら、そのお悟りに近づくまではあと一歩の所という存在―それが迦葉尊者なのです。