四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること
第39回「一仏両祖の坐禅 ―
道元禅師様は「
振り返ってみると、若かりし頃の私は「有所得心」のある坐禅を行じていたことが思い起こされます。それは、自分が悟ることや、自分だけが救われることを願って坐り続ける坐禅であり、自分の周囲に存在するいのちとのつながりを感じるどころか、そうした存在への気配り・配慮というものが一切ない坐禅でありました。しかし、そんな坐禅をいくら繰り返しても、三〇歳
そんな自分が、あるとき先達から「自分が坐禅をしている姿を絵に描いてごらんなさい」という問いをいただき、自分が坐する姿を描いたところ、自分が坐っている場所(単)や周囲で坐している修行者、壁や床など、自分の周囲の存在が一切描かれていないのは、本来の姿ではないのではないかとのご指摘をいただき、ハッとしたのです。このとき、私は、これまでの自分は周囲の存在に意識を向けずに坐禅を行じていたことに気づかされたのです。
こうして少しずつ周囲への気配り・配慮というものを持ちながら坐禅を行じていくようになったのですが、すると、日々の生活の中で、坐禅以外の場でも周囲に目を向けることができるようになっていきました。この周囲に目を向けるというのが、誰かを苦しめようとか、皆の不幸を願うようなものではなく、皆が救われることを願う心持ちでなされるならば、坐禅という行が「有所得心」のない行となり、身心共々に安寧を生み出すことにつながっていくのです。そうした周囲への配慮・気配りを忘れることなく坐禅を行じてこられたのが仏教の開祖であるお釈迦様であり、道元禅師様や瑩山禅師様といった両祖様だったのです。
そうした一仏両祖が行じてきた坐禅というのが、「操行の心と道が符合した坐禅」であり、そんな坐禅によって、皆の身心に安寧が訪れることを、今一度、再確認しておきたいところです。