第29回「第一章・機縁B 正見(しょうけん) ―お釈迦様のモノの見方―

【機縁】 (ただ)形の醜悴(しゅうすい)し衣の麁陋(そろう)なるを見て、一会悉(いちえことごと)(あやし)む。
(これ)
(より)て、処処の説法の会毎(えごと)に、釈尊座を分ち迦葉を()らしむ。
(しか)
しより衆会(しゅうえ)上座(じょうざ)たり。

―瑩山禅師様より「十二頭陀を行じて、十二時中虚しく過ごさず」と評される迦葉尊者(かしょうそんじゃ)
後に徹底した頭陀行(厳格かつ質素な修行)によって、「頭陀第一」と称されましたが、それゆえに人々の眼には尊者のお姿が「形の醜悴し衣の麁陋なる」とあるように、みすぼらしくて粗末なものに見えたのでしょう。この舞台となる霊鷲山においてお釈迦様の説法をお聞きすべく集っていた一会が悉く尊者を怪しんだのは致し方ないのかもしれません。

修証義第4章の中で道元禅師様は「其形陋(そのかたちいや)しというとも、此心(このこころ)を発せば、(すで)一切衆生の導師なり」とお示しになっています。此心は「菩提心(ぼだいしん)」を指し、「自分の中に存在している本心・本来の姿」を意味するものです。それを持って毎日を生きる者ならば、たとえ、その姿形がみすぼらしかろうが、人々を導く仏であると道元禅師様はおっしゃっているのです。このお言葉の背景に迦葉尊者のお姿があったのではないかと想像するに、仏教の深みを思わずにはいられません。まさに道元禅師様も瑩山禅師様もお釈迦様のみ教えに従い、その生き様に帰依した祖師方だったということです。

そうした誰もが怪しむ迦葉尊者に対して、お釈迦様は常に自らが説法される際には、その隣に居らせたというのです。それが「処処の説法の会毎に、釈尊座を分ち迦葉を居らしむ」の意味するところです。この理由は他でもなく、お釈迦様の迦葉尊者に対する絶対的な信頼です。たとえ会衆全員が迦葉尊者の表面的な姿に捉われて怪しもうが、お釈迦様は違います。目に見えるものだけで判断せず、その内面にまで広く目を向け、深く見通しながら、人を判断し、物事を分析していくのが、お釈迦様のモノの見方なのです。これこそ「正見」なる「正しいモノの見方」なのでしょう。是非、私たちも見習いたいものです。

こうしてお釈迦様からその本質を見抜かれ、座を分ちて、その隣に侍した迦葉尊者はお釈迦様の高弟として、後継者として会衆から認識されていくようになるのです。それが「会衆の上座たり」の意味するところです。