四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること

第41回「操行(そうぎょう)と道と合した行履(あんり)

所謂(いわゆる)操行(そうぎょう)と道と合して、如何が行履(あんり)せん。
心取捨
(しんしゅしゃ)
せず、心名利(しんみょうり)なきなり。

『「操行(仏道修行を(たも)ち、終始徹底すること)」と「仏道」がピッタリと符合するとき、どのような行動(行履)が生じるのだろうか?』―それが「所謂、操行と道と合して、如何が行履せん」における道元禅師様の我々仏道修行者に対する問いかけです。「行履」とは、「一切の行為」を指します。仏道修行者の行為と言えば、坐禅や読経、作務(さむ)(掃除を始めとする各種作業)をイメージしますが、それ以外にも食事や睡眠、入浴や排泄といった人間が生きていく上で外せない行為もあります。仏道修行者というのは、仏道を行ずる者である以前に、一人の人間であり、その人間的な側面と、仏道修行という自らの仕事や役割に関する側面の双方を有しています。それら全てを含めた一切の行為が「行履」なのです。

今回の一句では、道元禅師様が『仏道修行者にとって、「修行」という「今の自らの行い」と、「仏道」という「お釈迦様以降、道元禅師様や瑩山禅師様といった多くの仏教祖師方が行じ、後世へと伝えてきた行い」とが合致しているというのは、どういう行いを指すのか?』ということを会下の修行僧たちに問いかけているのです。勿論、この問いかけは現代の我々は当然のこと、将来の修行者にも問いかけられている永遠の問いかけなのです。そんな問いかけに、道元禅師様は「心取捨せず、心名利なきなり」とお答えになっています。すなわち、自らの心の中に「自分にとって好都合なものは取得し、不都合なものは放棄する」といった「取捨の念」があったり、第一「菩提心を(おこ)すべきこと」の中で、「名利を(なげう)つ」とあったように、名利(名聞利養)といった「自分の名誉や利益を求め、そこに捉われる心持ち」がないかどうか?―もし、あるならば、消し去っていくことが、「操行と道と合した行履」だと道元禅師様はお示しになっているのです。

今一度、立ち止まって、今の自分と向き合い、自らの心の中の確認です。「取捨の念」や「名利」があるならば消し去る機会としたいものです。こうした機会を意識的に設けながら、消し去るべきものが消えるまで、自ら確認してくことが仏道修行であることを、一学道の者として心得ておきたいものです。。