四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること

第42回「心取得・心名利なき道 ―佛法修行は、是れ人の為めに修せず―」

佛法修行は、是れ人の為めに修せず。
今世人の如きは、佛法修行の人、其の心、(どう)と遠して遠し。
若し人賞翫(しょうがん)すれば、たとい非道と知るも、乃ち之れを修行す。
若し恭敬讃歎(くぎょうさんたん)せずんば、是れ正道と知ると雖も、棄てて修せず。
痛しい(かな)汝等試(なんじらこころ)みに静心観察(じょうしんかんさつ)せよ。此の心行(しんぎょう)、佛法と()んや。
佛法に非ずと為んや。()ずべし、耻ずべし、聖眼(しょうげん)の照す所なり。

『「操行(仏道修行を(たも)ち、終始徹底すること)」と「仏道」とがピッタリと符合した学道の者(仏道修行者)の行履(あんり)(行動)とは、一体、どういうものを指すのか?』という問いに対して、道元禅師様は前段において、「心取捨(しんしゅしゃ)せず、心名利(しんみょうり)なきなり」とお示しになりました。これは、心取捨(自分の心の中に「自分にとって好都合なものは取得し、不都合なものは放棄する」といった分別する心持ち)や、「心名利(自分の名誉や利益を求め、そこに捉われる心持ち」は仏道修行者にとっては不要なものであるというのです。

そんな取捨の念や名利の念、とりわけ、後者を有したまま仏道に入ろうすることが、いかなる状況に展開していくか?―それが今回、道元禅師様より提示されています。まず、「佛法修行は、是れ人の為めに修せず」とあります。これは仏道修行によって周囲に存在している者に何らかの救いを与えていくことを否定するものではありません。自分が一心に修行する姿を他者に見せつけて、他者から絶賛を得るような、「自分のために修行すること」を否定したものと捉えるべきでしょう。要は名利の念を以て仏道に邁進するのを戒めたものなのです。

この点について、先人はおっしゃいました。「佛法を修行するのは、世人の意を迎えるためではない。そのような迎合の佛教は真実の佛法でなく、虚偽のそれといわねばならない。それは結局、佛教を利用しようという吾我名利の念あるがためである。」―まさにその通りです。「真実の佛教は、佛陀(お釈迦様)の真精神に生きる佛教であり、他のために奉仕する佛心である。虚偽の佛教は、吾我名利にとらわれる佛教であり、生活手段に堕した佛教である。」―同じ先人のお言葉です。これもまた、肝に銘じておきたいお言葉です。

名利の念を有したまま仏道を歩んでいると、「若し人賞翫すれば、たとい非道と知るも、乃ち之れを修行す。若し恭敬讃歎せずんば、是れ正道と知ると雖も、棄てて修せず。」とあるように、「皆が称賛する行為が仏道から外れたものであっても、仏道として修行し、逆に、本来の仏の道・教えであるのに、皆が認めなければ、間違いと捉え、やらないことがある」というのです。仏道修行を行じているとは言いながらも、その向く先は仏ではなく、周囲にいる他者の眼であるがために、こうした現象が生じてしまうのです。

だから、道元禅師様は強くおっしゃるのです。「汝等試みに静心観察せよ」と―。仏道修行者というのは、常に自らと向き合い、我が行為について、心静かに確認(観察)する機会というものを設けなくてはならないというのです。それは仏道修行者である以前に、人間であるからこそ、いつしか心取得や心名利といったものに毒されてしまい、気がついたときには、道から外れたことになる恐れが十分にあるからです。これぞまさに、仏教祖師であり、道の先達である道元禅師様から我々学道の者に向けられた注意事項として、しっかりと押さえておきたい点です。道元禅師様の「耻ずべし、耻ずべし」というお言葉には、強い注意喚起の意が汲み取れます。

自らの名誉利益ばかりを求め、世間の人々の目を気にして行動していては、必ずや仏道から外れていくことは必須です。自らと静心観察するとき、「聖眼(佛祖の眼・佛祖の心)」の存在を確認しておきたいところです。自らの聖眼を育てながら、学道に精進していきたいものです。