第30回「第一章・機縁C 古仏 ―不退(ふたい)の上座―

【機縁】 唯、釈迦牟尼仏一会の上座(じょうざ)たるのみに非ず。
過去諸仏の一会にも不退(ふたい)の上座たり。
知るべし、是れ古仏なりといふことを。
(もろもろ)声聞(しょうもん)の弟子の中に排列(はいれつ)すること(なか)れ。

―お釈迦様からの絶大なる信頼を受け、その臨位に侍する迦葉尊者―
そのみすぼらしくて粗末な姿ゆえに、当初は釈迦牟尼仏一会の中では怪しまれてしまいましたが、一会の師たるお釈迦様の正見(しょうけん)(偏らないモノの見方)によって、一会の上座として認識されるようになっていきました。

それだけではありません。「過去諸仏の一会にも不退の上座たり」と瑩山禅師様はおっしゃいます。「不退」には、「不退転(ふたいてん)(仏道修行において、お釈迦様のお悟りに向かって、退くことなく進んでいくこと)」という言葉があるように、「仏道修行において得た功徳を失わないようにしていく」という意味があります。お釈迦様のお悟りというのは、お釈迦様が三十歳臘月(さんじゅっさいろうげつ)八日に坐禅修行によって体得したときに誕生したわけではありません。実は、それ以前の、はるか太古から存在していた真理で、それに気づき、言語化して多くの人々にお伝えしたのがお釈迦様だというのが正しい捉え方です。そんな過去世も含め、現時点は勿論のこと、さらには未来世においても釈尊教団随一の不退なる仏道修行者であることがお釈迦様から発せられているのが、「過去諸仏の一会にも不退の上座たり」です。

これを踏まえ、瑩山禅師様は会衆に対して、「知るべし」と喚起を促した上で、迦葉尊者が「古仏」であるとおっしゃっています。「古の仏」、すなわち、「過去世に存在していた仏」ということです。お釈迦様のお悟り同様、迦葉尊者は今という時間・ここという場所にすい星のごとく現れた優れし者ではありません。過去世から不退に仏道を歩みながら、仏のお悟りを積み重ねてきた結果、今・ここに姿を表した存在であるということなのです。「古仏」というのは、そういう観点から捉えた古からの仏という意味でからの言葉なのです。

そうした「古仏」であるがゆえに、瑩山禅師様は「唯諸の声聞の弟子の中に排列すること勿れ」とお示しになっています。「声聞」は「お釈迦様の説法・み教えを聞いて修行に励む仏道修行者」です。今・ここに集いし修行者と排列(配列)できる存在ではなく、すでに道を完成させた別格の修行者であるということです。

こうした諸の観点から、お釈迦様は迦葉尊者の器を見抜き、ご自身がお悟りになった仏法を伝えていったのです。