第32回「第一章・拈提@
【拈提】
―「謂ゆる彼時の拈華は祖祖単伝し来りて、妄りに外人をして知らしむることなし」―
ひょっとすると、そうした世界観を頭の中だけで理解しようとしたり、むやみやたらと言葉で解説したりするのは間違っているのかもしれません。「経師(経典の字面のみで意味を解釈していく立場をとる師)」、「論師(仏教を経論等の文字で解釈し、実践が伴わない師)」、「禅師(専ら坐禅修行に励み、禅に通じた師)」の「知るべきところに非ず」という瑩山禅師様のお言葉はよくよく見極め、そのお示しせんとしている論点(実処)を押さえておきたいものです。
お釈迦様の時代、全ての禅法に通じた修行者は「禅師」と呼ばれていましたが、時代が進んでいく中で、仏教に専門分野が生じ、細分化されていくようになりました。そうした中で登場するのが、「経師」や「論師」といった立場の方々です。この他にも「
今回、瑩山禅師様の拈提おける実処とは何かを考えていくとき、仏道の世界において、師から弟子に仏法が伝わっていくということに着目したとき、特定の分野からの視点のみで解釈してみたり、自分と相手の間に何らかの立場の違いなどを作って、特定の人の立場は聞き入れないといった姿勢では実処を捉えることはできないということです。決して、瑩山禅師様は坐禅をすることも経典祖録を読むことも、否定なさっているのではありません。坐禅だけを重視して行じてみたり、経典祖録の読解・解釈ばかりに専念するといった、何か一点に捉われるような解釈の仕方をするのではなく、常日頃から坐禅も経典祖録の読解・解釈も、全て重視し、どれも行じていく姿勢なしには、「拈華瞬目」を始めとする、祖祖単伝の実処を捉えてくことは難しいというのです。
仏教は専門家・細分化することなく、「経師」・「論師」・「律師」・「禅師」といったそれぞれの立場を包括した視点で捉えていくことが大切だということを、瑩山禅師様のお言葉から、しっかりと押さえた上で、日々の修行に勤しんでいきたいものです。