四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること

第43回「佛法の常 ―佛法のための仏道修行―

()れ佛法修行は()お自身の為めにせず、
(いわ)
んや、名聞利養(みょうもんりよう)の為めに之れを修せんや。
但だ佛法の為めに、之れを修すべきなり。諸佛の慈悲、衆生を哀愍(あいみん)するは、
自身の為めにせず、他人の為めにせず、唯だ佛法の常なり。

「名聞利養(世間に自分の名誉が広まったり、何らかの利益を得ることによって、我が身を養ったりすること)」の念を持ったまま、仏道修行を行ずることは、お釈迦様やそのみ教えを、自分の都合のいいように利用することになります。それは“虚偽の仏教”であると言わざるを得ません。道元禅師様は、こうした捉え方を「自分だけが救われること」を願うような「自身の為」の仏道修行や、「周囲に認められること」を願う「他人の為」の仏道修行として、厳しく批判なさっています。

では、正しい仏道修行というのは、何なのでしょうか。それは、お釈迦様の成道以降今日まで、悟りを得た祖師方によって脈々と受け継がれているものと言い換えることができますが、「自身の為」でもなければ、「他人の為」でもない、「佛法の為」に修する仏道修行が、正しく伝わっている佛法(佛法の常)であると道元禅師様はおっしゃっています。この観点も、しっかりと押さえておきたいところです。そうでなければ、誤った道を歩むことになりかねません。

仏法の世界においては、自分を最優先したり、絶対視したりするような姿勢で道を歩んでいては、永遠に仏のお悟りに近づくことはできないでしょう。仏に我が身を委ねる帰依(きえ)の姿があってこそ、正しく仏道を歩んでいけるのです。

そうした歩みを為してきたのが、お釈迦様以降、仏道修行によってお悟りを得た道元禅師様や瑩山禅師様といった仏教祖師方なのです。祖師方の「慈悲(様々な苦悩を抱える人々の目線に立って、苦しみを除き、安楽を与えること)」や「哀愍(悩み苦しむ人々を哀れみ、救いの手を差し伸べること)」というものは、仏に帰依する者であるがゆえの心の働きであり、行いであることを十二分に理解しておきたいところです。

自分を最優先する“俺が、私が”の念を捨てて、仏に帰依し、そのみ教えに従っていくことが「佛法の常」なのです。