四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること

第44回「諸佛の衆生を(おも)小虫畜類(しょうちゅうちくるい)の子の養育を見るに―

見ずや、小虫畜類(しょうちゅうちくるい)の、其の子を養育するに、
身心艱難
(しんじんかんなん)
経営苦辛(けいえいくしん)して、畢竟長養(ひっきょうちょうよう)すれども、
父母に於て、(つひ)に益なきをや。然れども、子を(おも)うの慈悲あり。
小物すら()お然り。自ら諸佛の衆生を念うに似たり。

今回は「諸佛の衆生を念う ―小虫畜類の子の養育を見るに―」という演題を付けさせていただきました。「仏が人々を思うとはどういうことなのか?」―この問いは、「仏の慈悲とは何か?」という問いに言い換えることができると思いますが、それを道元禅師様は小虫畜類(昆虫類や動物)の子育てを事例として、お示しになっています。小虫畜類が我が子を育てていく場合、様々な場面で艱難(苦悩)や辛苦が長期に渡って発生するものの、父母にはどれだけ苦労しても、それに対する利益や対価はないというのです。そうした自分の言動に対して、何ら見返りがなくても、一切、気にすることなく、我が子が苦しんでいれば全力で救いの手を差し向け、安心させていこうとするのが、親の「子を念うの慈悲」であると言うのです。そして、それと同じように、衆生を(おも)って言動を発していくのが、「諸佛の衆生を念う」ことであると道元禅師様はお示しになっています。

要は小虫畜類がどんなに厳しい環境の中にあっても、何の期待や見返りを求めることもなく子育てをしていくように、周囲の人々を我が子のごとく捉えて慈しむ姿勢を持つと共に、どんな言葉や行いを施したとしても、「施してやったんだ」といういような心持ちで関わっていくようなことをしないというのが、「仏の慈悲」だということです。中々、難しいことではありますが、我々人間も小虫畜類の子育てに見る仏の慈悲を見習い、日々の生活の中に生かしていけたらと願うのです。

住職には3人の子どもがいますが、高校入試直前の長女に中学校入学を控える長男、小学校の高学年になる次男と、それぞれ初めての経験を前に抱える課題も多々あります。そんな中、子どもを一人前に育てていくことの大変さは感じながらも、周囲の方々のお力で、安全に無理なく子どもの養育をさせていただける環境にあることに只々、感謝申し上げるばかりです。

そうした人間の調いし環境に対して、時折、テレビ番組で放映されている厳しい大自然の中で我が子を育てる動物たちのたくましい姿に感銘を受けることがあります。厳しい寒さや暑さの中、いつどこから襲ってくるかわからぬ外敵からも身を守りながらも、自分たちの食料をも求めていかなくてはならないという必死さがにじみ出る場面からは、ひょっとすると、住む家があり、働き口があり、食に困らずに安全かつ安心して生活できているならば、他にどんな不平不満を抱くことがあろうかと、普段の我が身を反省させられるのです。

せめて自分の日常に目を向けてみたとき、十分なくらいに調えていただき、安心して生活できていることが確認できたならば、周囲に対して、仏の慈悲を以て関わっていけたらと思うのです。そして、それが学道の者としての心がけであることを押さえておきたいところです。