第33回「第一章・拈提A 多子塔前の付嘱」
【拈提】 然も恁麼なりと雖も、恁麼の公案、霊山会上の公案に非ず。
多子塔前にして付嘱せし時の言なり。伝灯録、普灯録に載る所は、
是れ霊山会上の説といふこと非なり。
最初に仏法を付嘱せしとき、是の如きの式あり。
「拈華瞬目」に見るお釈迦様から迦葉尊者への祖祖単伝(仏法の付嘱)というのは、「八万衆」とも言われる大勢の修行者が集いし霊鷲山で行われたことと解するのではなく、正確には「多子塔前」にて為されたことと捉えるべきであるというのが、今回の一句の指し示すところです。
この点については、宋代(1004年〜1007年)に法相宗の僧侶・道原が編纂した“一七〇〇の公案”と称され、お釈迦様始めとする祖師方のお言葉を収録した「景徳伝灯録」や雲門宗の雷庵正受(1146−1208)が「景徳伝灯録」を継承し、そこに一般在家の言葉を加えて編纂した「嘉泰普灯録」においても、はっきりと明記されていることが瑩山禅師様よりお示しされています。
これを受けて、今一度、伝光録の「機縁」に目を向けてみると、多子塔前において、お釈迦様と迦葉尊者が初めてお会いしたとき、お釈迦様が「ようこそいらっしゃい!」と迦葉尊者を喜び迎え入れなさったこと、そして、その瞬間に迦葉尊者のヒゲや髪がなくなり、袈裟がかかるという清浄なる出家者としての姿に生まれ変わったことが記されておりました。この多子塔前における一連の儀式のごとき出来事によって、「最初の仏法の付嘱」という、「お釈迦様から迦葉尊者への祖祖単伝」がなされていったことを、ここでしっかりと押さえていおきたいところです。
すなわち、こうした多子塔前でのお釈迦様と迦葉尊者とのやり取りに端を発し、以降、師から弟子への仏法の相承がなされていくのです。