四、有所得心をもって、佛法を修すべからざること

第45回「仏性に気づく 本皆然ほんみなしかなり既に佛子たり―

諸佛の妙法は、慈悲一条じひいちじょうのみにあらず、あまねく諸門に現ず。
其の本皆然ほんみなしかなり既に佛子たり、んぞ、佛風ぶっぷうならわざらんや。

小虫畜類の父母が何の利益を得ることがなくとも、一心に我が子のことを思い、養育していく「子をおもうの慈悲」は、「諸佛の衆生を念うに似たり」とあるように、悟りを得た仏の慈悲と同様であると道元禅師様はおっしゃっています。

何の見返りも利益も求めずに、ただ一心に相手のためを思って行動を発するというのは、たとえば、我が身に危険が迫るような状況の中、相手だけが救われ、自分はいのちを失うというようなことを指しているのかなと思います。こうしたお話は、一見したところ、美談のようにも見えまが、どちらか一方だけが救われるのではなく、相手を護りながら我が身も護り、共に救われるというのが、「諸佛の衆生を念うに似たり」が指し示す「仏の慈悲」であるということを押さえておきたいところです。

こうした仏の慈悲も含めた「諸佛の妙法」というのは、慈悲一条(慈悲一本)のみに止まることなく、様々な方面に拡がっていくものであるというのが、「普く諸門に現ず」の意味するところです。「普く」には、「普遍」という言葉があるように、「全て」とか、「一般的に」という意味があります。衆生を念う慈悲の心は、言葉や行動になって表面化し、やがては社会全体へと広がっていく性質があるということをなのです。

そうした素晴らしい仏のみ教えに触れるとき、気づいておきたいのが、「仏性ぶっしょう」という、「誰もが有する仏に成れる性質」の存在です。我々人間は、純粋できれいな心を持って生まれたはずなのに、時の流れとともに成長していく中で、その心は次第に汚れていってしまいます。この純粋できれいな心が「仏性」であるとも解釈できるのですが、自分で気づかぬうちについた汚れのために、その本来の清浄なる姿が見えなくなっているならば、是非とも確認しておきたいものです。「自らが仏性を有したいのちを生かされている」と思い直すことによって。

そんな仏性を有した存在であるというのが、「佛子」の意味するところです。「其の本皆然なり既に佛子たり」―元々は仏性を持った佛子であるということを自覚する機会を自ら設けていきたいものです。そして、佛子であることに気づいた人々が、自らの言葉や行いで以て、少しでも佛風を普く諸門に現ぜられるようにしていきたいものです。我々の日常が明るく穏やかなものになることを願って―。