第7回「執着の戒め ―道は無数にあり―」


無苦集滅道(むくしゅうめつどう)


今回の一句も含め、これまでも般若心経中には「無」という言葉が頻繁に出てまいりました。「無」は、一般的な「ある・なし」の範疇ではなく、この世に存在するものは、何ごとも変化を繰り返す実体なきものであることを意味しています。それゆえに、どんなに美しさや若さを保とうとしても、いつかは老いていきます。また、どんなに最愛の人といっしょにいたいと願っても、いつかは別れが訪れます。我々の不変や無変化を願う気持ちは叶うものではありません。そして、そのことをいつまでも願っていても、苦しが深まっていくのです。どうか、そのことに目覚めたいものです。

今回の「無苦集滅道」は、「苦集滅道(くじゅうめつどう)」が「無」であるとあります。この「苦集滅道」とは、「四諦(したい)四聖諦(ししょうたい))」と申します。お釈迦様がインドの六大都市の一つであった波羅奈国(はらなこく)鹿野苑(ろくやおん))において、お悟りをお開きになった直後、初めて説法されたみ教えです。

ここで「苦集滅道」を下記にまとめてみます。

現実世界に生きていく上で、苦しみから逃れることはできない
苦しみの原因は人間の心の中に巣くう「三毒煩悩(貪り・瞋り・愚かさ)である
三毒煩悩を滅すれば、我々は悟りの世界に入ることができる
我々が悟りの世界にいたるための道(修行)が8本ある

こうした「苦集滅道」が「無」だというのですが、それは一体、何を意味しているのでしょうか?解釈によっては、何だかお釈迦様のみ教えが否定されているような印象さえ覚えます。

しかし、これは、決して、お釈迦様を否定しているわけではありません。「無苦集滅道」は「成道得道(じょうぶつとくどう)(悟り)への道が四諦のみではない」ということを意味しているのです。つまり、「四諦」だけが悟りや救いへの道だと思い込み、そこに「執着してはいけない」ということなのです。

「無」という言葉を用いることで、万事が実体がないということが説かれていますが、それは見方を変えれば、一つのことに一点集中しない、すなわち、我々の執着を戒めていることにも気づかされます。ですから、苦しみから逃れ、悟りの道に進むのであれば、お釈迦様の最初の説法のみならず、その他のみ教えにも眼を向け、お釈迦様を全体的に捉えて、様々な修行をやってみることが大切だというのです。

悟りの世界に入るための八つの道を「八正道(はっしょうどう)」と申しますが、それだけが悟りの世界への入口ではありません。「坐禅」はもちろんのこと、お釈迦様の最期のみ教えである「八大人覚(はちだいにんがく)」だってそうです。すなわち、日常の様々な場所にお釈迦様がお示しになった悟りの世界が存在しているのです。そんな悟りの世界への入口は広大で、いつでも我々を誘い入れようと、その門戸を大きく開いています。ところが、中々、仏さまとのご縁が結ばれない・・・。どうやら、我々の方がそれに気づかずに、徒に毎日を過ごしているようです。

悟りの世界への道が無数に存在するように、何事においても、目標や目的を達成するための方法はいくつもあります。私たちはついつい一つの道に捉われ、それだけが正しいと声高に主張してしまいますが、どうか一つの方法だけに捉われ、自分の意見や考えだけを主張することがないよう、他の様々な道を受け止め、視野を広げながら、毎日を過ごしていくことの大切さを、「無苦集滅道」から学び取っていきたいものです。