第7回 「人として生まれたということ」
「なぜ、自分が人として生まれたのか?」―そんな疑問を感じながら日々の生活を送っている人はいないと思います。誰しも自分が人間としてこの世に生を受け、今を生かされていることは、何の変哲もない、当然のこととして、特に意識していないことと思われます。
今回は、そんな無意識の中で疑問にさえ感じられない「自分が人として生まれたということ」がどういうことなのかを考えてみたいと思います。
「人身得ること難し」―かつて、あるご老師がご法話の席で、このみ教えを説いてくださった際に、こんな問いを投げかけながら、お話をしてくださいました。
「我々には父母という二人の両親がいるが、その父母にも、それぞれ父母がいる。それを10代まで遡ると何人になるか、計算してみたことはありますか?」
ご老師は、実際に計算されたそうです。結果はものすごい数になったとのことでした。ちなみに、私も10代まで計算してみました。その結果をお伝えします。
2(両親)+4(祖父母)+8+16+32+64+128+256+512+1024
=2046
私たちは、なぜ、自分が人間として生まれてきたのかに疑問さえ感ずることなく、人として生きていることを当たり前のこととして日々を過ごしているかもしれませんが、よくよく考えてみると、実に多くの人の血を受け継ぎ、その恩恵をいただきながら、今の自分があることに気づかされます。私たちは自分だけの力で“生きているの”ではありません。過去に生きた多くのご先祖様のお力、今という時間を共に過ごしている周りの多くの存在のお力、そうした数えきれぬ存在のお力によって、“生かされている”のです。私たちの日常は、自分たちから能動的に行動する「
10代遡って2046人のご先祖様の存在―「その中のたった一人でも欠ければ、今の自分は存在しない」と先の老師はおっしゃいました。そのお言葉は私に「一人の人間のいのちが多くの人々の力で成り立っている」ことに気づかせてくれました。まさに「人身得ること難し」です。
そうした大勢のご先祖様からいただいたいのちを受け継いで今を生かされていることを思うとき、いただいたいのちを最期まで輝かして生かすことが、何よりものご先祖様への報恩供養であることに気づかされます。こうして味わってみると、「生を明らめ死を明らめる」ことが人として生きていく上で大切な課題であることを、しみじみと痛感する一句のように感じます