第7回 「(はな)てば手にみてり」


執着をやめ、欲を手放したとき、大切なものが手に入る


「坐禅をするとき、何かに捉われる心(執着心)を捨てれば、心豊かな境地に入ることができる。」―これは道元禅師様が「正法眼蔵」の中でお示しになったことです。同様のことは他の経典にも説かれております。たとえば、「般若心経」には「執着心を捨てることで、安楽の道を得ていこう」ということが説かれています。

坐禅会などを行うと、よく出てくるご意見の中に「坐禅をするとき、心を無にしろとよく言われるが、なかなかできません。」というのがあります。坐禅中に思考を停止することを「無になる」と捉えるのでしょう。かつて、私もそう捉えていた時期がありました。そして、実際に坐禅をしながら、なかなか「心を無にする」ことができず、悩んだでいたものです。 『どうすれば、「無」になれるのか?』、『「無」にならなければ、人様に坐禅の功徳を説くことができないのではないか・・・?』そんな悩みを抱えながら、ときには、「無」になれない自分に情けなさや怒りを感じたこともあったくらいです。

そんなある日、曹洞宗では著名なご老僧が、私の悩みに明確な解答を与えてくださったのです。それははっきりと『坐禅をして「無」になれっこない』という解答でした。そして、「いのちをいただいて生きている限り、人間は思考を続ける生き物である。思考が止まるときは、死んだときである」と。このご老僧の日常の坐禅修行の生活からにじみ出たみ教えは、私の眼前の暗闇が真っ青な青空に変わるような、そんな新鮮なものでした。そして、これまで自分が考えている「無になること」ばかりを追い求めていた(捉われていた)ことに気づくことができたのです。

そもそも「無」になるとは何なのでしょうか?我々は皆、何かを考えながら生きています。「今日はどこへ遊びに行こうか?」「夕飯のおかずは何がいいか?」など、どんなときも、いろんな考えが頭に浮かんでくるものです。それは、ご老僧のお言葉をお借りすれば、「生きている証」なのです。それに逆らい、思考を停止しようとするような無理難題をすることに捉われるのではなく、自分たちのいのちの癖(いのちの持ち味)と素直にぶつかり合って、その実体を明らかにしつつ安楽の道を求めていくのが「無」になるということなのだと、私はご老僧のお言葉によって教えていただきました。「無」になるとは、執着心を捨て去ることなのです。そして、坐禅とは、そうした修行なのです。