第8回  『「仏法」と共に生きる』


仏法()うこと(まれ)なり

前回味わった「人身得(にんしんう)ること(かた)し」というみ教えと今回味わう「仏法()うこと(まれ)なり」は対句表現になっています。「人身得ること難し」とは、「人間」としていのちをいただくことは容易なことではない」というお示しでした。そうしたいのちの奇跡と同じく、仏法と巡り会うことも決して、容易なことではないというのが「仏法値うこと希なり」の意味です。

ここで注目したいのが、「値」という文字です。「値」を「あう」と呼んでいます。「あう」という文字を辞書で調べてみますと、「会(人と会う)」、「合(一致する)」、「逢(巡り会う)」、「遭(好ましくないことに遭う)」、「遇(偶然にでくわす)」があります。果たして、「値」はこの5つのどれかに該当した意味を持っているのでしょうか?それとも別の意味があるのでしょうか?私はこの「値」には、「人身を得る」という奇跡との対ということから、「仏法との奇跡的な出会い」という意味が含まれているように思えます。容易に出会うことのできぬ仏法ゆえに、その出会いは、それほど価値のあるもの、人間形成の中で大転換の可能性を秘めたものだと捉えていいように思います。そうした「奇跡で価値ある出会い」という意味を強調しようと、敢えて「価値」の「値」を使って、そのミラクルさを表現していると捉えるのが妥当かと思います。そんな奇跡を更に、「希」という言葉が強調しています。

「仏法値うこと希れなり」―このみ教えに触れてみると、いろんなことが思い出されます。私はお寺の子として生まれましたが、私には教師になりたいという夢があり、僧侶の道に進む気がありませんでした。そこで、大学は曹洞宗の学校ではなく、国立大学の教育学部に進学しました。平成10年のことです。

しかし、4年間の学生生活で体験した教師の現実というものは、厳しいものでした。自分が教師に対して、思い描いていた理想と現実のギャップがあまりにも大きかったのです。加えて、学生生活の開放感からか、学問より遊ぶことに比重をかけてしまい、あまり勉強をしたという記憶がありませんでした。理想と現実のギャップを埋める努力もせず、また、何の解決策を見出すこともできず、徒に遊んで過ごしてしまった4年間―今思えば、せっかくの勉強の機会を十分に生かせなかったと後悔することもあります。

平成14年、私は横浜・鶴見にあります曹洞宗の大本山・總持寺で1年間の修行をさせていただきました。その後、石川県に戻り、羽咋の永光寺(ようこうじ)で3年半の修行をさせていただきましたが、その4年半の生活で何度も悩みや苦しみに出会いました。自分の思いが通じない苦しみ、周囲とどのように接していけばいいかがわからぬ苦しみ、わがままが先行し、人を傷つけてしまう悩み。言い出せばキリがありません。教師の道を選ぼうが、僧侶の道に進もうが、人が生きていく上で苦しみや悩みは避けられません。

そんな中で平成17年より3年間、通わせていただいた曹洞宗の「布教師養成所」にて、私は「仏法」と出会いました。そして、仏法が人が生きていく上での悩みや苦しみをどう解決すればいいのかという問いに答えてくれることを知りました。いつも、修行の妨げとなる三毒(さんどく)(貪り・怒り・愚痴)が先行していた自分。何ごとにも見返りを求めていた自分。執着心の塊だった自分。そんな愚かさのために、自分だけではなく、周囲の人をも苦しめていたことを仏法は教えてくれたのです。

そして、仏法はこれから自分がどうすればいいのかをも示してくださったのです。「まっすぐにお釈迦様を目指し、自分を磨きながら進んで行け」と―仏教ではそれを「精進」といいますが、成仏(仏に成る、仏に近づく)まで、いただいたいのちを最期まで生かし切ることが、私がいただいた「生きていく上での課題であり、修行である」ことに気づかせていただいたのです。

そんな自分を救ってくれた仏法のすばらしさを、今度は多くの方にお伝えしていくこと―それは、僧侶である自分の使命でもあります。そうすることで、少しでも社会のお役に立てる人間になりたいと願うのです。人生は目の前の壁を乗り越えるかどうかで決まってきます。辛くてもがんばって乗り越えた方が、諦めたときよりも得るものが多いというのが、教師を目指して生きていた学生時代と僧侶を生きている今を通じて得た宝物です。どちらも仏法に出値うためには、欠かせぬご縁だったと、今はただただ手を合わせるばかりです。

現代社会は悩みや苦しみを抱えながら、どうすればそこから解放されるかがわからずに生きている人が大勢います。もしかしたら、「仏法」に出値えていれば、救われるのでは・・・。つくづくそんなことを考えてしまうのです。そうした生きる上での苦しみを抱えている人に、仏法は必ず救いの手を差し伸べます。いつでもどこでも、「仏法」は困った人の味方になって存在しています。“値い難い”仏法ですが、日常生活の中で仏法を求め、仏と共に生きていくことが、私たちに安らかなる日常を提供していくのです。本屋に言って、仏教書を買い求めて読むもよし、お寺に足を運ぶもよし、どんな取っ掛かりでもいいのです。多くの人が日常に「仏法」を拠り所としながら日々を過ごしていただくことを願うばかりです。