描くこと自体には関係ないことなんだけれど、こんな気持ちで描いてます。


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たかがトール、されどトール


基本的に“模写”の手工芸だと思っている。だからこそ誰もができて普及していったのではないかと。ちょろっと手を入れるだけで印象か大きく変わり、トールをよくわからない人が見るととんでもなく難しいことをしているように思うらしい。(そんなことないのにねぇ)

まねごとなんだからたいしたことはないと思われることもあるが、それなりに奥が深い。いろんな“模写”を描いていくうちに好みの作家さんがでてきたり、自分なりの描き方が確立されてきたり、ある程度方向性が決まってくることが多い。リアルな絵の技術向上を目指して芸術的なスティルライフ(静物画)を描いたり、特定の作家さんの弟子になったり、伝統工芸的な分野を追求したり、模写に飽き足らずオリジナル作品に力を注いだりと人それぞれ。

誰でもできるという入口が広い分、“トールペイント”と一言で言い表していいのかと思うくらいいろいろなバリエーションがある。
・・・キリがないかもしれない(>_<)

初心


一応学生時代には美術部というところに所属はしていたけれど、基本であるべきデッサン力がないばかりにやる気を失い実質毎日バイトにいそしむ毎日。トールは下書きを写して描くので、絵がかけなくても(デッサンや構図の力がなくても)いいというところがそんな私にとって魅力的に感じた。

一つ何かができると思いっきり自画自賛してうるさいと言われる。今もσ(^◇^;)
小さなことかもしれないけれど、一つできるともう一つというある種の向上心がこんなことから生まれて楽しい気持ちになれるんじゃないかと思う。
何人かの友達といっしょに描いているとそんなに上手なわけではないけれどお互いに心底褒めあって楽しい時間が持てた。
こんなことって大人になってからなかなか経験できるものではないという気持ちが今でも筆を持っている理由かもしれない。

“習う”ということ


独学がいいのかどこかで誰かに習ったほうがいいのか。
これはトールに限ったことではないと思うけれど、どちらにも利点があり、不具合なところがある。
私がトールを始めたときの場合、最初は本を見て独学でなんでもできると高をくくっていたけれど、幾つか描いているうちに限界を感じ、人に習う方が効率的だということにやっと気がついた。
ただ、習うときには素直な気持ちと貪欲なまでの意欲のあるなしで掴み取る情報量が格段に違ってくるということは後々になって気がつくこととなる。これは 随分後になって思ったことだけれど、トールを通して気がついたことの一つだ。
こんな風にかいてはいるけれど時としてちょっとできると何でもできる気分になることもある。時々自分でチェックしないと…。

さらっと立ち読みをしただけなのでこういうところで紹介をするのは心苦しいけれど、中谷彰宏氏著“運が開ける勉強法”という本を見て改めて感じたのでありました。

カリキュラム


楽しんで描くという意味ではカリキュラムというものは必要のないものかもしれない。基本をしっかり身に付けたい、いろいろな技術を身に付けたいという気持ちがある人にとっては一つずつがクリアされることによって楽しいという気持ちが生まれることもある。

私自身が生徒としてカリキュラムを受けていたときは楽しいと思うときとそうでないときの差が激しかった。正直なところ、生徒としての態度が悪かったこともあったと思う。というのもカリキュラムは決まったものを描いていくのが前提で、それがすべて好みの絵だとは限らないからだ。カリキュラムを修了してすべての作品を描き終え、自分の中でいろいろなものが身についたと実感したときに、好きではないと思っていたものや大変なだけだったと思うものもやってよかったと思える自分がいた。

今、違うものではあるけれどもカリキュラムを教えるという機会を得て思うのは、カリキュラムというシステムは、わたしの知る限り、一つ一つの作品を仕上げる毎に大抵それまでとは違った新しい技法や表現方法が盛り込まれる
。カリキュラムでは作品を仕上げることが一番なのではなく、1つの作品を描くことによって新しいテクニックや技術を覚える、もしくは確認するという気持ちで描くことによって、どれだけ応用が利くのかを理解することなんじゃないかと考えるようになってきた。

資格を早々に取ることばかりに気を取られがちだけれど、カリキュラムであることの意味をそれぞれが考えた上で作品をこなし、その後に第三者に評価してもらえる制度も設けてある、という受け止め方をしている。

認定制度


何かしらの目標があると意欲がわきやすい。趣味として行うことの多いトールペイントではあるけれど、それなりの域に達したとき表立って認めてもらいたいと思う認知欲があってもおかしくはない。

講師認定や合格の制度はいろいろな民間団体や個人が設けていてその基準も様々あるようだ。技術の高さを評価する試験もあれば、一定の作品数をこなした人や、作品数にかかわらず一定の回数を通った人、カリキュラムを修了した人を対象に発行している場合や、その制度に加えて卒業作品の提出をしてもらって認定することもある。あまりにも基準がばらばらでどこかの認定講師だといっても認知度が低かったり噂だけで評価の判断をしてしまうこともありこういったものには意味がないという人もいる。

大切なのは認定や合格をもらうことではなくその過程であって、その結果がそれぞれのお墨付きとなり自信になるのだと思う。また、トールに限らずどんな資格であってもいえるのは、自分ががんばって取った資格にあぐらをかくのではなくその後の本人次第でその意味あいはどうにでも変わり、それによって本当の第三者の評価が出るのではないかと思う。


手前味噌の話で恐縮だが、日本手芸普及協会の場合、基本やポイントをしっかりと押さえて身に付けたかどうかが評価されるように見受けられる。トールペイントの認定制度を意識したときには、自分はどんなふうに認めてもらいたいのかを少し考えることも大切なことの一つではないかな。

“教える”ということ


今の私の頭の中は“教える=習う・学ぶ”という図式が成り立っている。
教室などでは自分はこんなふうにやっているけれど、他の人はこんな風にやっていることを学ぶ。自分はすんなりできたけれど同じ方法で苦労する人もいることを知る。出会う人はすべて先生、経験は糧と思えてならない時間である。

また“教える=伝える”という図式も隣に並んでいる。
教室なぞを設けてしまうと先生という呼称で呼ばれてしまうが、自分が偉くなってしまったような感覚を持ってはいけない。少々早く知識を得て、それがわかっていたり身に付けたりしているだけのことで、それは偉くもなんともない。教えるといっても自分の知っていること、わかっていることを伝えているだけであって、本当に偉いのはしっかりと理解して技術を身に付けていく生徒の立場の人たちなんだから。

著作権


デザインする人がいてそれを模写していくことが多いトールペイントでは自分が楽しむ分には問題はないけれど、教室で教えるとか、作品を作ってバザーやネットで売るということには規制が出てくる。音楽なんかと同じね。

オリジナルを描くということは、構図や色やイメージを推敲して他のこともおもんばかりながら、それまでの経験を活かしつつ描くわけだから、模写をして似たようなものを描く労力とは比べ物にならないものがある。(それが楽しいところでもある)その大変さがわかる人ならどこまでやってもいいのか確認したり、規制を守るということはマナーだということぐらいわかっていたっていい。
トールにとっての著作権は、なまじっか“模写”のためのデザインであるためにマナーとして受け止めていない人も多く、作家さんによって差があることも事実。トールの本には規制の程度が書いてあったり、連絡さえいただければとか、パケットを購入していただければとか、自由にどうぞなんて方もいたりする。

細かことかもしれないけれど、気持ちよく楽しむためにこういったことも気をつけていきたい。

楽しみ方


あくまでも趣味として考えたときには自己満足の一つにしか過ぎないのでこうあるべきというものはないと思っている。
最初は模写することが多いので作品が増えること自体が楽しかったりする。 できることが増えてきたときにそれを実感するとうれしくて仕方がない。
描いている工程での変化が楽しかったり、作品が出来上がったときの達成感がたまらない人もいる。
オリジナル デザインは考えることが楽しいと思ったりもする。

人に見てもらうのがうれしくて描いている人もいる。これに関して私はあまり当てはまらない。確かにきれいだね、上手だねという言葉をいただくことはうれしい。ただ怖いのはその言葉で有頂天になり自分が一番と思い込む“井の中のかわず”にはなりたくないという自重の気持ちがある。自分がおだてに乗りやすいタイプだと自覚している人はこのドツボにはまらないように。

評価と批評の境界線


言葉遊びをするつもりはないけれど、私の中での“評価”と“批評”は明らかに違う。確かに上手下手は存在する。でも自分が楽しむという意味では直接関係するものではないんじゃないかな。

自分だったらこうする、これはどうやって描いて表現するのだろうな、ここをこんな風にすると統一感が出てくるかも、など他の方が描く作品を見て刺激を受けたり自分にプラスになる部分を探すことやそれを提案するのが私にとっての“評価”。

作品のあら捜しをしてこれはだめ、あれはだめと自分の価値観だけでの判断や第三者の評価をもとに否定的なことだけを思ったり口にしたりするのが“批判”もしくは“批評”。

国語辞典で調べてみると“評価”と“批評”と“批判”は使う状況によって変わることがあり、似たり寄ったりの説明で混同しそうになるけれど、 言動には気持ちが表れるものです。 怖い怖い…

自信と自己満足


趣味の域での話なのでこの二つは自分の中だけなら問題ないことだと思う。ただ他の人と比べたり認知欲があまりにも強すぎて周りの人を不快にさせてしまうことがある。
自信を持つことは必要だがおごりたかぶることとは紙一重。
自己満足は心が満たされるけれども自惚れるものではない。
これは境界線がむずかしい!!

持っていい自信と持たなくてもいい自信があると思っている。自分の成長に気がついたときそれは自信となり、芯から強くなる。 自信が過剰になり誰かの作品を見て自分より劣っていると思うのはただの高慢でしかない。競争をしているわけではないのだし、 本当に実力のある人は自分が先手を打って前置きや言い訳を言わなくてもちゃんと認めてくれる。見ている人はちゃんと見ている。 自分の中では優位にたっていると思っていても周りからは違う目で見られている。それを指摘されたとき素直に受け止められるようになりたいものだ。

マニアック


私にとって好きな絵と描きたい絵は違うので、アップしている絵の印象から受け止め方は多々あるかもしれないが、人に言わせればトールをしている中では変わった趣味をしているといわれる。
難しい絵だからといって魅力を感じるわけでなく、その時の自分が描いてみたい、心地いいと思うものが作品として仕上げてきているような気がする。
大抵の人が描きたがるかわいい絵や多くの人が極めたいと思う薔薇はとりあえず描いたことがあるからいいやと思ってしまう。もちろんときおりマイブームがやってきて、それまでなら絶対描かないと思っていた絵が無性に描きたくなるときもある。
具体的にはアール・ヌーボーやアール・デコの時代のものとか、アーリーアメリカン的な要素のものがおおいかな。作者名を出すとジェリー・ビーンズさんとか望月千草さんとか。文字のアレンジなんかもけっこう好きだったりする。
これでもかというくらい何度も描いたものの資料を見返すのはメディウムセミナーだし、フォーフィニッシュも魅力を感じる。
“話を聞かない男、地図が読めない女”では男脳とテスト結果がでたことだし、 こういったことも好みに反映するのかな?
まむずぎゃれっとさんの雑貨のような絵にも惹かれるし、さらさらと描いていけるヨーロピアンもそそられる。
こんな風に書くと結局なんでもいいんじゃないなんていわれそうだけど模写をするトールはこれでもいいのよと思うのであった。

ローカルトールペインター


大都市圏からみればトール人口はかなり少なく、たまにある地元のセミナーにでれば隣県から来た方の数が多く、しかもメンツはどこかで見たことのある方がほとんど。
トールグッズの店も少なく、大手手芸店にいっても物足らない品揃えでお値段もちょっと…。本屋に行けばトールの本は激減し、ひどいところでは扱っていない始末。ついネットで買ってしまう自分も悪いといえば悪いのだけれど…。
情報も以前に比べればましになったけれど少なかったり遅かったり。激戦区になっているといわれている都市部もそういった意味ではうらやましさを感じる。

地方独特の排他的なところもあってどれだけトールをやってる人がいるんだろうと思ってしまう。ネットとか表に出てくる人が少ないからそう感じるのかな。もしくは私が単に知らないだけなのか。(きゃー!友達がいないみたいに見える!!(>_<))
都道府県によって地域性があるという本を見たことがある。確か、プライドが高く見栄張りで排他的 と書いてあったような…。

自分1人で本やDVDを見ながら描いたりオリジナルを描くなんてことはいくらでもできるんだけど、身近に共通の話題でお互いを尊重しあって楽しく盛り上がれる人がたくさんいるともっといいのになぁ。