第10回 「三宝帰依を誓って①」


南無帰依仏(なむきえぶつ) 南無帰依法(なむきえほう) 南無帰依僧(なむきえそう)

帰依仏無上尊(きえぶつむじょうそん) 帰依法離塵尊(きえほうりじんそん) 帰依僧和合尊(きえそうわごうそん)

帰依仏竟(きえぶっきょう) 帰依法竟(きえほうきょう) 帰依僧竟(きえそうきょう)


ご法事やお盆などでお寺にお参りしたとき、「ナンマンダー、ナンマンダー」とお唱えするのを誰しも耳にしたことがあるかと思います。この「ナンマンダー」というのは、漢字で書くと「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」となります。「阿弥陀仏」は浄土教が信仰の対象とする阿弥陀様のことです。阿弥陀様に手を合わせ、「ナンマンダー」とお唱えするということは、阿弥陀様を心の拠り所とし、我が身を阿弥陀様に委ねるということです。これぞ阿弥陀様に「帰依(きえ)」する信仰者の姿です。「帰依」というのは、そうした仏様に自分の全てをお任せすることを意味する言葉です。

そんな「帰依」と同義となるのが、「ナム(南無)」です。「南無」は、梵語(ぼんご)(インドのサンスクリット語)における「帰依」のことで、梵語では「ナモ」と発音することから、その発音にそのまま漢字を当てて、「南無」となったようです。

ということは、「南無帰依仏(なむきえぶつ)」とは、仏様への帰依を表していることがわかります。同様に「南無帰依法」とは、仏教(法)に対する帰依、「南無帰依僧」とは、仏教を信仰することで仏法を伝えてきた祖師方(僧)に対する帰依を表しているのです。そして、このいずれもが、仏様を拠り所とし、自分の全てを投げ入れ、我が身をお任せしていくという、純粋な信仰心から発せられるお唱えごとなのです。

次に「帰依仏無上尊」「帰依法離塵尊」「帰依僧和合尊」と続きます。これらは、なぜ仏・法・僧の三宝に帰依していけるのかが示された言葉で、いわば、“帰依の理由”ということになります。

「帰依仏無上尊」
「仏は無上ゆえに帰依できる」ということです。これは、仏様がいかなるときも救いの手を差し伸べてくださるこの上ない偉大な存在だからこそ、帰依できるということです。「無上」とは「最上」を意味しています。我々が帰依する仏は三界六道、この世で最上の存在であるがゆえに、「無上尊」というのです。

「帰依法離塵尊」
「法は煩悩から離れた尊い教えゆえに帰依できる」ということです。これは、法が三毒煩悩から離れた純粋な教えであり、我々を必ずや救ってくださるからこそ、帰依できるということです。

「帰依僧和合尊」
「僧は和合を目標とする尊い集団ゆえに帰依できる」ということです。「和合」は「志同じくする者同士が一つに溶け合うこと」です。すなわち、「一体」を目指す仏法の世界において、仲のいい関係は自他共に安心をもたらします。それゆえに、帰依の念が沸き起こってくるのです。

こうして“帰依の理由”が明確になった後、「帰依仏竟」「帰依法竟」「帰依僧竟」と続きますす。「竟」とは「終わり」を意味します。つまり、「(仏・法・僧に)帰依し終わった」ということですから、仏を正師として、他を信仰の対象としないことを誓うこと(帰依仏竟)・邪道に惑わされず、常に正法を念じること(帰依法竟)・仏法帰依する者たちとの和合を誓うこと(帰依僧竟)という、「完全なる帰依」を言い表しているのです。

お葬式の席上では、今回、提示させていただいた文言を導師に引き続き、伴僧(ばんそう)(従僧)もいっしょにお唱えします。それは、儀式を執り行う僧侶や、これから仏弟子として生まれ変わる故人様はもちろんのこと、遺族も、参列者も、その場の全ての者が、故人様の死を通じて、三宝帰依の日常を目指すことを誓うということを意味しているのです。

故人様の死をきっかけとして、我々、残されたものたちは、仏法僧の三宝とのご縁を結び、三宝を拠り所としながら、人間としてのあるべき生き方を全うしていく第一歩に立つのです。