第26回 「坐禅のチ・カ・ラ」

(かつ)観る(みる)超凡(ちょうぼん)(おっ)(しょう)()脱立(だつりゅう)(ぼう)

()(ちから)一任(いちにん)することを

「お坊さんは幽霊を見たことがありますか。」
「お坊さんは幽体離脱ができますか。」
「私の将来を占ってもらえませんか。」


一般の方から、上記のような質問をいただくことがあります。しかし、僧侶というのは、霊能力者や占い師のような何か特別の力を有した存在ではありません。お釈迦様から伝わる法を世の人々にお伝えする(下化衆生(げけしゅじょう))と共に、自ら法を実践し、仏に近づく(上求菩提(じょうぐぼだい))ことを役目としている人間なのです。ですから、幽霊を見たり、幽体離脱したりすることができるはずがありません。

成仏(じょうぶつ)」という言葉があります。正しくは「成仏得道(じょうぶつとくどう)」と申しますが、一般的には死後の世界のことと捉えられていますが、死後のことというよりむしろ、生きている私たちの“生きる課題”であり、私たちが仏のみ教えに従って日々を過ごし、仏に近づく(成る)ことを意味しています。

そうした私たちの成仏に対して、我が曹洞宗の開祖・道元禅師様がお勧めになっているのが「坐禅」なのですが、かつての坐禅修行者の中には、坐禅を続けていく中で「超凡越聖」とか、「坐脱立亡」といった事例が数多存在していたと道元禅師様はおっしゃっています。そうした事例が、先にも申し上げましたような、僧侶が不思議な力を有する存在という解釈にもつながっていくのでしょう。「超凡越聖」とは、凡夫だったものが、聖なる存在(悟りを得た仏様)の位に入ることです。それは、“凡と聖”といった、相反する概念のいずれかを取捨選択するようなことがなくなり、双方の価値を認め、受け入れる力を有することができるようになることを意味しています。「坐脱立亡」は坐禅をしながら、あるいは、立ったままの状態で亡くなる(涅槃に入る)ことを意味しています。坐禅による悟りの体得ということでしょう。

「超凡越聖」や「坐脱立亡」が指し示すのは、坐禅が有する「不思議な力」です。それらは言葉では言い尽くすのは難しいですが、坐禅によって私たちの身心が調っていく過程において、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が磨かれ、不思議な力を発するようになっていくということなのです。