第21回『故人を拝む ―「舎利礼文(しゃりらいもん)」が発する遺族のあり方

「舎利礼文」というお経があります。「舎利」は、「遺骨」や「霊骨」のことで、特に仏や高僧の屍を指します。葬儀では「十仏名」をお唱えした後、木魚をつきながら「舎利礼文」をお唱えしますが、ここでは、火葬前の故人様を仏として礼拝する姿勢を自覚すると共に、私たち遺族も仏の道を歩む決意を固めていくことが大切です。

それを踏まえた上で、以下に「舎利礼文」をご紹介させていただきます。

(1)一心頂礼(いっしんちょうらい) 萬徳圓満(まんとくえんまん) 釈迦如来(しゃかにょらい)

「ただ一心になって、あらゆる徳が具わっている(萬徳圓満)釈迦如来(お釈迦様)を礼拝いたします。」
これは「新たな世界において、仏弟子として生まれ変わる故人様を仏様として拝んでいきます」というお誓いのお唱えです。

(2)真身舎利(しんじんしゃり) 本地法身(ほんぢほっしん) 法界塔婆(ほっかいとうば)

「そのお姿は、法が具わったものであり、法の世界における塔婆(我々が拝むべき信仰の対象)のごとき存在です。」
「本地法身」というのは、「法が具わったお姿」であり、故人様が悟りを得た仏様そのものであることを意味しています。

尚、「塔婆」は「卒塔婆(そとうば)」ともいい、法隆寺の“五重塔”や、お墓に安置する“板塔婆”を思い浮かべていただければよろしいかと思います。その起源は、お釈迦様の入滅(お亡くなりになること)後、その御遺骨が八地方の国王らに分配され、それを安置する高い建造物が建立されたことに端を発します。その後、阿育王(あいくおう)(釈尊滅後100余年、起源前270〜230頃にインドを統治していた国王で、仏教に帰依し、仏教史上第一の仏教外護功労者でもある人物)が八万四千の仏舎利塔を建て、仏教を興隆させました。そして、中国・日本へと仏教が伝来する中で、塔婆も伝わりました。

経文中に「法界塔婆」とありますが、ここでは、法界(仏の世界)に赴く故人様が塔婆のごとく、ご遺族にとっての信仰の対象になるようにとの願いが込められています。

(3)我等礼敬(がとうらいきょう) 為我現身(いがげんしん) 入我我入(にゅうががにゅう)

「私たちが仏様に一心に敬礼するとき、仏様は姿形を変えながら、私たちの前に現れます。そして、仏が私たちの中に入り、私たちは仏と一体に溶け合って、同じ境地になります。」
ここでは、故人様を仏様として一心に拝み続けていくと、いつの間にか私たち(遺族)の中に故人様が入ると共に、故人様の中にも私たちが入り、お互いに一つに溶け合って、一体になっていく様が示されています。これが「入我我入」(我に入り、我が入る)ということです。この一句によって、大切なご家族を失い、その悲しみに暮れるご遺族は、故人様が仏となって自分たちの中に生きていることが実感でき、別れの悲しみを幾分も和らげることができるような気がします。ご遺族様が一心に故人様を礼敬していくとき、故人様がご遺族の心の中で生き続けていくのです。


(4)仏加持故(ぶつがじこ) 我證菩提(がしょうぼだい) 以仏神力(いぶつじんりき) 利益衆生(りやくしゅじょう)

「入我我入によって、私たちは悟りの境地に至り、御仏の広大な智慧と慈悲をいただき、“衆生利益”(人々をお助けする)という仏のお役目に徹します。」
「加持」とあるのは、仏の慈悲と人々の信心が通じ合って、心安らかなる境地に至ることを意味しています。これは「感応道交(かんのうどうこう)」ということでもあります。

(5)発菩提心(ほつぼだいしん) 修菩薩行(しゅうぼさつぎょう) 同入円寂(どうにゅうえんじゃく)

「人々と共に仏心を起こし、仏に近づくための修行を行い、安らかに仏の世界に入ることを願います。」
故人様を仏として拝みながら、これからを生きていく私たち遺族も「菩提心を発し、菩薩行を修行する」ことによって、同じ境地に入ることを誓います。これは、遺族様にとって、故人様の死をきっかけとして、さらに善き人間になることをお誓いするものです。

ちなみに、「円寂」というのは、「涅槃」のことで、生死の苦しみを離れ、心安らかなる仏のお悟りに到達したということです。

(6)平等大智(びょうどうだいち) 今将頂礼(こんしょうちょうらい)

「お釈迦様には、こうした大智(すぐれた智慧)があるので、今将に頂礼し奉るのです。」
お釈迦様の偉大さに気づくと共に、そんな師の弟子として、ご縁をいただいたことを踏まえ、お釈迦様と故人様に対する帰依の念を明確にしておきたいものです。

こうして見てまいりましたように、「舎利礼文」には、故人様の成仏を願うと同時に、遺族様もまた、成仏(仏に近づき、よき人間となること)の場として捉えていくことが願われていることに気づかされます。そうした遺されたものが故人様との別れをきっかけとして、成仏の日常を送ることが、仏の世界に旅立つ故人様を喜ばせるのです。そして、それが故人様にとっての最高の供養にもなるのです。