第8回「“いる・いない”に関わらず…〜如来の十号から学ぶ〜


(あるい)如来現在世(にょらいげんざいせ)にもあれ
(あるい)如来滅後(にょらいめつご)にもあれ

お釈迦様には色んな“呼称”が存在しています。「如来十号(にょらいじゅうごう)」とは、そんなお釈迦様をこの世の救世主として讃えた10種類の称号です。

今回は紙面に余裕がありますので、簡単ではありますが、十号をご紹介させていただきます。

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如来(にょらい)・・・如実(真実の世界)から到来した者、如実に来至した者
A
応供(おうぐ)・・・煩悩を断ち、供養を受けるに応じた徳を有する者
B
正偏知(しょうへんち)・・・知らないことがない者
C
明行足(みょうぎょうそく)・・・理論を極め、それを実践できている者
D
善逝(ぜんぜい)・・・正しく行い、正しく語れる者
E
世間解(せけんげ)・・・世間を熟知している者
F
無上士(むじょうし)・・・この上なく最も勝れた者
G
調御丈夫(じょうごじょうぶ)・・・いかなる者も仏道に導き、成仏させることができる者
H
天人師(てんにんし)・・・正しい教えで人を導ける無上の師
I
仏世尊(ぶっせそん)・・・世尊(この世で最も尊い者)

さて、この十号を踏まえた上で、修証義を読み味わってみたいと思いますが、如来がお釈迦様を意味していることは言うまでもありません。「現在世」とは、「今・ここ(人間世界)に存在している」ということですから、お釈迦様が約2500年前の2月15日に亡くなるまでの80年間、この娑婆世界に実在していた事実を説いています。

それに対して、「滅後」とは、「滅した後」ということですから、「亡くなった後」ということになります。すなわち、お釈迦様がお亡くなりになられてから今日に至るまでの、この長い長い時間を指しているのです。

お釈迦様が実在していらっしゃった過去と、そうでない現在―相手が自分たちの目の前に存在しているかどうかで、人々の反応は変わってきます。たとえば、子どもの頃、担任の先生がいないと怠けていたのが、担任の先生が来たら、さも今まで自習をしていたかのように振る舞うような、あの誰もが身に覚えのある経験のようなものです。人間というのは、ついつい誰かが見ているところでは相手によく思われようとするのに、人目がなくなった途端に、手を抜いてしまうものなのです。

しかしながら、悟りを得た“仏”としてのお釈迦様は生存していなくても、そのみ教えを代々伝え続けてきた多くの“僧”の力によって、法(お釈迦様のみ教え)は、「今・ここ」に受け継がれ、歴然と存在しています。だから、私たちは三宝とご縁を結ぶことができるのです(自分のものの見方や考え方次第ですが・・・)。そして、お釈迦様は既に亡くなった過去の人だから、そのみ教えは時代には合わないと、十分に検証することなく決めつけているようでは、三宝と出会うことができないのです。

お釈迦様の存在は、我々の目の前に“いる・いない”といった、我々が考えているような小さな基準を超えたものです。どんな時代であれ、どんな状況であれ、お釈迦様は存在し、そのお示しは色褪せるものではありません。いつでもどこでも通用するものです。そうしたお釈迦様始めとする仏法僧の三宝とのご縁は、どんな状況(時代)であっても、こちらから求めていくことで結ばれるご縁なのです。