第27回「坐禅とハラスメント」
況んや復、指竿針鎚を拈ずるの転機
払拳棒喝を挙するの証契も
未だ是れ思量分別の能く解する所にあらず
昨今は人権思想が浸透し、お互いの人格を否定するような言動を慎む動きが常識化しつつあります。教育現場における体罰や企業における労働者の不当解雇は勿論のこと、「パワーハラスメント」を始めとする、各種ハラスメントの防止に向けた対策は年々、進んでいます。
そうした「ハラスメント防止」が叫ばれる時代の中に生かされている私たちが、一度、立ち止まって、「ハラスメント」について考えてみる機会となるのが今回の一句です。「指竿針鎚」、「払拳棒喝」という言葉が登場しています。いずれも
こうした「指竿針鎚」や「払拳棒喝」に対して、不思議な力を有するという解釈以前に、行為そのものに疑念を覚える方も多いのではないかという気がしますが、道元禅師様はハラスメント行為そのものの是非を説いていらっしゃるのではありません。表面的にはハラスメント行為に見えるかもしれないような言動でも、その背景に存在している仏法に着眼なさっていらっしゃるのです。
道元禅師様がお弟子様方にお話になったことを高弟・
「国を治める役人、田畑を耕す庶民が休む間もなく苦労しながら、一体、どれだ身を粉にして働いているか。そうした苦労から逃れて、出家したにも関わらず、修行を怠って、眠りこけているのは愚かなことである。」
ハッとさせられるお言葉です。ここには如浄禅師様の坐禅に対する深い帰依が感じられます。それは坐禅こそが自分たちと仏様との絆を深めていく上で欠かせない行いであるという確固たる信心です。如浄禅師様は、そんな坐禅を存分にできる出家という身にありながら、徒に眠りこけて時を過ごすのは、まるで国王が政治を怠り、庶民が働かないのと同じ愚かで恥ずべきことであるとお考えになっています。だからこそ、自らも修行僧と共に坐り、眠る者を殴ってまでも、坐禅を行じさせたのです。そんな如浄禅師様の拳には少しでも仏道との絆を深めてほしいという願いと、修行僧への深い愛情が存在しています。まさに「愛のムチ」です。そして、そんな如浄禅師様の厳しい愛のムチに込められた思いは修行僧たちに伝わり、一生懸命、坐禅修行に励んだというのです。
このエピソードが我々に指し示しているのは、相手を思いやり、その成長を切に願う上での厳しさは、必ずや相手に伝わり、指導者も教え子も共に成長していくということです。このことはハラスメント防止が叫ばれる現代において、よくよく考えておかなくてはならない視点であるように思います。感情の赴くがままに言葉を発したり、行動を提示したりするから、ハラスメントになるのです。そこでは「叱責された」とか、「痛い目に遭った」といった痛みだけが残り、指導者も教え子も救われないばかりか、成長もありません。逆に、表面的な温かい言葉や穏やかな言動だけでは、誰も成長しません。温かいか冷たいかといった、両極端な言葉や行いのやり取りに終始していては、救いも成長もあり得ないということなのです。
とにかく人と関わる中で、お互いが救われ、成長できることを願い、言葉や行いをやり取りしていきたいものです。そうした姿勢からにじみ出てきたものが道元禅師様のおっしゃる「指竿針鎚」や「払拳棒喝」であり、そこには仏法が存在しているのです。