第3回 「通夜 その2 −涅槃図を描く“同事行(どうじぎょう)”の場−

亡くなった方の交友関係が広ければ、“お通夜”に参詣する人は多く、逆に、狭ければ少なくなるものです。しかし、人数の多少は関係ありません。なぜならば、仏教は、そうした見た目の情報に左右され、一喜一憂するような態度を慎むことを説くからです。ということは、参詣者が多かれ少なかれ、そんなことに捉われることなく、参詣者それぞれが、只々、故人を偲びながら参列することが大切なのです。

また、参詣者には、それぞれに信仰する宗教なり宗派があります。故人と同じ宗教や宗派であるとは限りません。ですから、儀式内容はもちろんのこと、お経も違えば、焼香等の作法にも違いはあります。そうした違いを気にする方もしばしば見受けられますが、そこに過剰に捉われるのも、あまりよろしくありません。それぞれのやり方で構いませんが、焼香一つ、合掌一つ、通夜の席での一つ一つの動作を丁寧かつ調ったものを心がけていきたいものです。それがご遺族始め、他の参詣者へのエチケットであるのは勿論のこと、故人へのご供養にもつながっていくことも併せて、押さえておきたいものです。

そして、故人を偲ぶ上で、遺族にとって大切な家族を失うということがどれほど悲しいことかをよくよく思い巡らしたいものです。「もし、自分の家族に不幸があったならば・・・。」―そうやって、遺族の心情を自分に照らし合わせながら、遺族の悲しみに同化できるようにしていきたいものです。そうした心がけを持つこと大切さを説いているのが、道元禅師様がお示しになっている「同事」というみ教えです。これは、自(我が身)を他に同化させ、他のことを我がこととして捉えていくことです。

そうした「同事」を意識しながら、通夜を執行する側(僧侶)もお参りする側(参詣者)も共に、故人を偲び、遺族に同化しながら、その場に臨みたいものです。それはあたかもお釈迦様の死を泣き悲しむ仏弟子をはじめとする関係者の姿を描いた「涅槃図」のようなものです。通夜はその場にいる全ての者で、「涅槃図」を描く儀式なのです。